皆さんは神というと、どういう感じを持たれるでしょうか?
まあ、この問は、そこそこ神を信じている人向きなのですが...
もし、それが常に我々人間の生き方、あり方をつねに見ているとしたら...
それが、絶対的な宇宙の法みたいなものを司っていて、それに準じた正しい生き方、あり方を示し、それに悖る、外れた者は罰する権威を持っている...裁く神のように映るとしたら...
その場合、見られているというより監視されているように感じてくるでしょう。
ということは、どっかでそこから隠れよう、逃れようという心魂があるってことになるんじゃないでしょうか?
もう、そこに永遠の罰が想定されているようなものです。こういう思いは、神を信じているという人に圧倒的に多いと思われます。
いや、ホントに不思議なことですi 神を信じていて...いやそれ故に救われないとはi...神を否定する者よりも重ーく心を苛み続けているのです。
でも、ご安心をi...それで救われないことが確定している訳じゃなく、そういうことはただそう思われているだけなのです。
("思われていること"というのは、救いがあるのか、無いのかどっちか分かりません)
神をどう感じているか...それはひっきょう自分自身をどう感じているかということにつながるでしょう。
神は正しいものを善しとし、誤てるものを裁くものと感じているということは、ありのままの、裸の自分を見ようとしない、認めようとしないということです。
ということは、神を見ようとしない(見られようとしない)、認めないということでしょう。自分を許していないことは、神を許していないということと同じなのです。
いつまでも、そんな他人行儀に、神を遠ざけたままだと、こんな風に神が迫って来るかもしれませんぞi(最後の審判は近いそうですから)
"見なさいi...お前の現前をi...お前が見ることが出来ないのなら、私が見させてあげよう...お前のすべてをi..."
あなたはすべて見透かされている...どこにも隠れるところ、逃れるところとて無いのですi
いいものも、悪いものもすべて...人前では泣いたり、怒ったり弱味を見せてはいけないと、能面みたいな顔して感情を押し殺して、悟った風に取り繕って...そういう余所行きの仮面はそこでは通用しません。
もう、すべてあけっぴろげi...神の裁きと思われたもので、とっくに許されていたではないかi 否、それは神の方が許しをこうているようではないかi
念仏の仏教などでは"安心"などと言います。
安心というのは、"見そなわれている"というところから来るのでしょう。こんな安心なことは無いのです。
"ゆだねる、全託"ということも、そういうものにあって、そうならざるを得なくなるということです。
人生でもっとも、大切な会わなければならない人は、そこにちゃんと居るi
見えないあなたが見えるあなたを映し出している...
勿論人生には意のままにならないこと、苦しみ、悲しみは付き物です。
でも、たとえ境遇がどうあれ、それらが思われたように、そのまま覆い被さったままということにはならないでしょう。
神が見そなわし給うから...それで幸福でないことなどあろうはずがありません。
これは、それまで遠くにおわすと感じていた神と親しく、近しくなることから開かれるでしょう。
まあ、この問は、そこそこ神を信じている人向きなのですが...
もし、それが常に我々人間の生き方、あり方をつねに見ているとしたら...
それが、絶対的な宇宙の法みたいなものを司っていて、それに準じた正しい生き方、あり方を示し、それに悖る、外れた者は罰する権威を持っている...裁く神のように映るとしたら...
その場合、見られているというより監視されているように感じてくるでしょう。
ということは、どっかでそこから隠れよう、逃れようという心魂があるってことになるんじゃないでしょうか?
もう、そこに永遠の罰が想定されているようなものです。こういう思いは、神を信じているという人に圧倒的に多いと思われます。
いや、ホントに不思議なことですi 神を信じていて...いやそれ故に救われないとはi...神を否定する者よりも重ーく心を苛み続けているのです。
でも、ご安心をi...それで救われないことが確定している訳じゃなく、そういうことはただそう思われているだけなのです。
("思われていること"というのは、救いがあるのか、無いのかどっちか分かりません)
神をどう感じているか...それはひっきょう自分自身をどう感じているかということにつながるでしょう。
神は正しいものを善しとし、誤てるものを裁くものと感じているということは、ありのままの、裸の自分を見ようとしない、認めようとしないということです。
ということは、神を見ようとしない(見られようとしない)、認めないということでしょう。自分を許していないことは、神を許していないということと同じなのです。
いつまでも、そんな他人行儀に、神を遠ざけたままだと、こんな風に神が迫って来るかもしれませんぞi(最後の審判は近いそうですから)
"見なさいi...お前の現前をi...お前が見ることが出来ないのなら、私が見させてあげよう...お前のすべてをi..."
あなたはすべて見透かされている...どこにも隠れるところ、逃れるところとて無いのですi
いいものも、悪いものもすべて...人前では泣いたり、怒ったり弱味を見せてはいけないと、能面みたいな顔して感情を押し殺して、悟った風に取り繕って...そういう余所行きの仮面はそこでは通用しません。
もう、すべてあけっぴろげi...神の裁きと思われたもので、とっくに許されていたではないかi 否、それは神の方が許しをこうているようではないかi
念仏の仏教などでは"安心"などと言います。
安心というのは、"見そなわれている"というところから来るのでしょう。こんな安心なことは無いのです。
"ゆだねる、全託"ということも、そういうものにあって、そうならざるを得なくなるということです。
人生でもっとも、大切な会わなければならない人は、そこにちゃんと居るi
見えないあなたが見えるあなたを映し出している...
勿論人生には意のままにならないこと、苦しみ、悲しみは付き物です。
でも、たとえ境遇がどうあれ、それらが思われたように、そのまま覆い被さったままということにはならないでしょう。
神が見そなわし給うから...それで幸福でないことなどあろうはずがありません。
これは、それまで遠くにおわすと感じていた神と親しく、近しくなることから開かれるでしょう。