"スピリチュアル難民"という言葉は、以前からチョイチョイ聞いていたけど、最近はやっぱりというか、"ノンデュアリティ難民"というのが増えているらしいらしいです。
ノンデュアリティの説法というのは、"私は居ないんですi"なんて、難破船みたいに自分がどこに居て、どこに連れていかれるのか分からないもので、これは"ただ、起きているだけ"じゃなく、"起こるべくして起きた"と思わざるを得ません。
そして、こういう事態を招いた責任は誰に?..."誰も居ない?"
ブームの立役者の一人、阿部敏郎さんなんかは、最近は天河の方で、"かんながらのままに"を決めこんでいるようで、こういう事態のことなど知らんぷりのようです。
もっとも、その周辺に集まる人たちは、阿部船長がどこへ舵を向けようと、ただ船に乗っかって追従して行くようなところがあるので、あまり関係無いのかもしれません。
その阿部さんも、"言葉で言い表し、伝えることには限界があるし、言葉を持ち運んではいけない..."と何度か述べておられるのは全く同感です。
しかし、その同じ口で彼は、"真理はこれ(ノンデュアリティ原理?に則ったもの)しかないと、言葉を持ち運んで、決めつけたようなことを何度も述べていたのです。
(あの周辺の人たちは、私と違って(?)よほど心が広いのか、あるいは柔順なのか、あるいは又テキトーなんでしょう)
ノンデュアリティに限らず、スピリチュアルな領域というのは、何ら確たる実証など求められず、その必要もあまり無いものでしょう。
要するに掴えどころの無い、見えない世界なのです。このことは、その道を歩む中で、ゆくゆくは思念を超えちゃうという事態にもなりかねないことを考えればお分かりになるでしょう。
そして、又自分が何もので、今どこに居て、どこへ行こうとしているか分からない、そのことを知りたい人も拠り所みたいなものを求めている...そうするとどうしても何かを掴もうとしてしまうのでしょう。
それにはどうしたって言葉に頼らざるを得ないものでしょう。
そして、何らかの教えらしきことを語らなければならない教師も言葉を持ってせざるを得ないのです。
ここで、短絡的で、何かがいつもトンでいるような、この世の中に合わせたように...
"そういうあなたは居ないのですi あなたが居なければ何も問題は無いのですi"、とメガトン級のブッとんだ言葉がi...
このそれ自体が二元性を物語る(別に悪い訳じゃない)、この教える側と教わる側との関係に、ある重要なことを欠いてしまえば、そういう言葉は暴力じみたものとならざるを得ないでしょう。
"そうか、考えている自分は居ないのかi アハンi"と、何かを掴もうとする心根に強烈なカウンターを見舞われて、一時は思いは飛ぶこともあるかもしれませんが、大方は真理らしきことを頭脳智で、分かったつもりになっているだけでしょう。
スピ的な言葉というものは、言葉を超えた何かを運ぶものでなければ、どうしたってそうなります。
そして、又スピリチュアルな領域では、本当にノンデュアリティ(教える、教わるという二元性、ある教え、メソッドなどに分節されることの無い有り様など)な事態というのも起こり得るものです。
ことに、そこに言葉の、思念の限界が示されている、そのもの無くしてそうならないものを差し示しているような場などにおいては...
ノンデュアリティ難民に陥りやすいのは、教える方も教わる方も、言葉、思念の限界を弁えること、それを超えたものへの畏敬を欠いた心的姿勢だと思います。
このことが弁えられなければ、ますますこの界隈にはどこにも行き着かない思念が飛び交い、難民が増えるばかりになるでしょう。
スピリチュアルの現実は、思いを超えたところにしか開かれないと、いつも自戒させられている次第です。
ノンデュアリティの説法というのは、"私は居ないんですi"なんて、難破船みたいに自分がどこに居て、どこに連れていかれるのか分からないもので、これは"ただ、起きているだけ"じゃなく、"起こるべくして起きた"と思わざるを得ません。
そして、こういう事態を招いた責任は誰に?..."誰も居ない?"
ブームの立役者の一人、阿部敏郎さんなんかは、最近は天河の方で、"かんながらのままに"を決めこんでいるようで、こういう事態のことなど知らんぷりのようです。
もっとも、その周辺に集まる人たちは、阿部船長がどこへ舵を向けようと、ただ船に乗っかって追従して行くようなところがあるので、あまり関係無いのかもしれません。
その阿部さんも、"言葉で言い表し、伝えることには限界があるし、言葉を持ち運んではいけない..."と何度か述べておられるのは全く同感です。
しかし、その同じ口で彼は、"真理はこれ(ノンデュアリティ原理?に則ったもの)しかないと、言葉を持ち運んで、決めつけたようなことを何度も述べていたのです。
(あの周辺の人たちは、私と違って(?)よほど心が広いのか、あるいは柔順なのか、あるいは又テキトーなんでしょう)
ノンデュアリティに限らず、スピリチュアルな領域というのは、何ら確たる実証など求められず、その必要もあまり無いものでしょう。
要するに掴えどころの無い、見えない世界なのです。このことは、その道を歩む中で、ゆくゆくは思念を超えちゃうという事態にもなりかねないことを考えればお分かりになるでしょう。
そして、又自分が何もので、今どこに居て、どこへ行こうとしているか分からない、そのことを知りたい人も拠り所みたいなものを求めている...そうするとどうしても何かを掴もうとしてしまうのでしょう。
それにはどうしたって言葉に頼らざるを得ないものでしょう。
そして、何らかの教えらしきことを語らなければならない教師も言葉を持ってせざるを得ないのです。
ここで、短絡的で、何かがいつもトンでいるような、この世の中に合わせたように...
"そういうあなたは居ないのですi あなたが居なければ何も問題は無いのですi"、とメガトン級のブッとんだ言葉がi...
このそれ自体が二元性を物語る(別に悪い訳じゃない)、この教える側と教わる側との関係に、ある重要なことを欠いてしまえば、そういう言葉は暴力じみたものとならざるを得ないでしょう。
"そうか、考えている自分は居ないのかi アハンi"と、何かを掴もうとする心根に強烈なカウンターを見舞われて、一時は思いは飛ぶこともあるかもしれませんが、大方は真理らしきことを頭脳智で、分かったつもりになっているだけでしょう。
スピ的な言葉というものは、言葉を超えた何かを運ぶものでなければ、どうしたってそうなります。
そして、又スピリチュアルな領域では、本当にノンデュアリティ(教える、教わるという二元性、ある教え、メソッドなどに分節されることの無い有り様など)な事態というのも起こり得るものです。
ことに、そこに言葉の、思念の限界が示されている、そのもの無くしてそうならないものを差し示しているような場などにおいては...
ノンデュアリティ難民に陥りやすいのは、教える方も教わる方も、言葉、思念の限界を弁えること、それを超えたものへの畏敬を欠いた心的姿勢だと思います。
このことが弁えられなければ、ますますこの界隈にはどこにも行き着かない思念が飛び交い、難民が増えるばかりになるでしょう。
スピリチュアルの現実は、思いを超えたところにしか開かれないと、いつも自戒させられている次第です。