「共同体とは、あらゆる生命の内面的根源である神を通して人と人が交わることを意味する。これに反して集団(主義)は客観化された、にせの集団的実在者と関係し、他の人間と交わることを意味する」(ベルジャーエフ。著作集6巻「霊の国とカイゼルの国」/白水社刊)
ベルジャーエフは、戦後共産主義が著しく台頭した世界情勢の中で、その思潮がしばしば共同体と結びつけられて語られるのを受けて、それと区別すべく、本来の共同体とは如何なるものかを明らかにしました。
ある外的権威となるイデオロギーの下に、外的力で人心を集合させる共産主義は、集団主義ともいうべきもので、我々の人格、内的生命のつながりをもたらすものではなく、共同体という表現は似つかわしくないのだ、と。
しかし、集団主義は太古から種族、国家、階級などにおいても我々の精神を支配し続け、共産主義やファシズムなどの全体主義はそのより強固な例と言っていいでしょう。
それは、教会などの本来精神的共同体とされるものにさえ、その見せかけの共同精神は見られるものです。
私の経験では、こうした宗教的、精神的な集まりほど、この二つの意識の在り方を浮き彫りにさせるものはない、と感じています。
それが我々の精神、内なるものという本質的なことと関わるものだけに、そこから逸脱、変質した有り様もことに意識されるように思われます。
ベルジャーエフがその集団主義と対比して、言明したのも、彼が言う我々の内なる普遍調和世界ソボールノスチについてだったのです。
ごく最近東京のクエーカーの集会で、この信仰共同体のことが問題になりました。
クエーカーと一口に言っても欧米などでは、「保守派」「近代派」「福音派」といくつかその在り方を巡り教派が分裂しているのです。
これ自体すでに、クエーカーは、その"主にある一致"を目指す、全一的な在り方は、すでに破綻していることを物語っている訳ですが、東京の集会においてもお互い"歩み寄れる"一致点を見い出す必要があるのではないか?という意見が出されたのです。
ある人との対話の中で私は、「それが内的な、もっとも本質的なことならば、各人にゆだねられるべきではないか?」と言ったら、相手からは「それでは共同体では無くなってしまう云々」との答えが帰ってきたのでした。
私の内に息づいているものは、共同体らしき、その実"皆さんの民主主義的合意"に基づいた理念にアダプトされねばならないのでしょうか?
私はそんな"デキアイの共同体"なんぞには絶対にくみしたくはありませんi (だからずっと未会員のままなのですが...)
でも、ごく最近そこに熱心に通われている、私と必ずしも考え方が一致している訳でもない、ある方(とにかく"、"聖書"、"福音"に通じておられる)との交流で言葉を超えて、一なるものにつながるような実感を持ったことがあります。
私は私、あなたはあなた...しかし、同じ命を共有出来るような事態、これがベルジャーエフの言う、ソボールノスチというものであり、教会ーエクレシアーというものの原義であり、誰も知らない"大調和世界観"(大調和協会で説かれる)というものなのでしょう。
これは勿論二人以上の複数にあっても展開されるもので、個である私と他の人格、全体とは、お互いを損なうこと無く調和のうちに導かれるのです。
これは人間が考えて、合意して全体に合わせるようにして設えるものでなく、"思いを超えたところ"からくるのです。
しかし、それはある形を成した集団には見い出すべくも無いのかもしれません。もはやそれは地上には求められないのでしょうか?
それでも私は、それが残り火のようなものではあっても、この内なる火を消してしまう訳には行かないのですi
それが一人だろうと、二人だろうと、主が臨めばその交わりは、神の国の種となるだろうから...。
ベルジャーエフは、戦後共産主義が著しく台頭した世界情勢の中で、その思潮がしばしば共同体と結びつけられて語られるのを受けて、それと区別すべく、本来の共同体とは如何なるものかを明らかにしました。
ある外的権威となるイデオロギーの下に、外的力で人心を集合させる共産主義は、集団主義ともいうべきもので、我々の人格、内的生命のつながりをもたらすものではなく、共同体という表現は似つかわしくないのだ、と。
しかし、集団主義は太古から種族、国家、階級などにおいても我々の精神を支配し続け、共産主義やファシズムなどの全体主義はそのより強固な例と言っていいでしょう。
それは、教会などの本来精神的共同体とされるものにさえ、その見せかけの共同精神は見られるものです。
私の経験では、こうした宗教的、精神的な集まりほど、この二つの意識の在り方を浮き彫りにさせるものはない、と感じています。
それが我々の精神、内なるものという本質的なことと関わるものだけに、そこから逸脱、変質した有り様もことに意識されるように思われます。
ベルジャーエフがその集団主義と対比して、言明したのも、彼が言う我々の内なる普遍調和世界ソボールノスチについてだったのです。
ごく最近東京のクエーカーの集会で、この信仰共同体のことが問題になりました。
クエーカーと一口に言っても欧米などでは、「保守派」「近代派」「福音派」といくつかその在り方を巡り教派が分裂しているのです。
これ自体すでに、クエーカーは、その"主にある一致"を目指す、全一的な在り方は、すでに破綻していることを物語っている訳ですが、東京の集会においてもお互い"歩み寄れる"一致点を見い出す必要があるのではないか?という意見が出されたのです。
ある人との対話の中で私は、「それが内的な、もっとも本質的なことならば、各人にゆだねられるべきではないか?」と言ったら、相手からは「それでは共同体では無くなってしまう云々」との答えが帰ってきたのでした。
私の内に息づいているものは、共同体らしき、その実"皆さんの民主主義的合意"に基づいた理念にアダプトされねばならないのでしょうか?
私はそんな"デキアイの共同体"なんぞには絶対にくみしたくはありませんi (だからずっと未会員のままなのですが...)
でも、ごく最近そこに熱心に通われている、私と必ずしも考え方が一致している訳でもない、ある方(とにかく"、"聖書"、"福音"に通じておられる)との交流で言葉を超えて、一なるものにつながるような実感を持ったことがあります。
私は私、あなたはあなた...しかし、同じ命を共有出来るような事態、これがベルジャーエフの言う、ソボールノスチというものであり、教会ーエクレシアーというものの原義であり、誰も知らない"大調和世界観"(大調和協会で説かれる)というものなのでしょう。
これは勿論二人以上の複数にあっても展開されるもので、個である私と他の人格、全体とは、お互いを損なうこと無く調和のうちに導かれるのです。
これは人間が考えて、合意して全体に合わせるようにして設えるものでなく、"思いを超えたところ"からくるのです。
しかし、それはある形を成した集団には見い出すべくも無いのかもしれません。もはやそれは地上には求められないのでしょうか?
それでも私は、それが残り火のようなものではあっても、この内なる火を消してしまう訳には行かないのですi
それが一人だろうと、二人だろうと、主が臨めばその交わりは、神の国の種となるだろうから...。