スピ的なことに関して、私が書いていることはすべて正しいなんて勿論思っていません。
読者におかれましても、そう思われて当然ですよね?
もっとも、それ以前に"何を書いているのか分からん!"という方もおられるかもしれませんが...
ただ、いつも意識している、させられていることは、大体何ら確証出来ないことに対して、決めつけた、断定的な表現を使わないこと、予見に基づいて読み手に先入観、固定観念を与えてしまう表現をしないことなどです。
だってねえ...人の目、公の目というものがあるじゃないですか...。
そういうものに照らして、恥ずかしくなることは書けないじゃありませんか?
例えば私がチョイと知ってる某が、"フリーメーソンは、魂と引き換えに、チャクラを開いて人心を操作している..."、"日本で近年起きている大地震は、陰謀団体が絡んで人工的に起こしている..."等々発信してて、こんなことをよく臆面も無く、公共に流せるものだと思います。(一度人の目に、"ハハーン、あれはああいうことを平気で言っちゃう人間なんだi"、というイメージが焼き付いてしまうと、よほど本人から"反省?"の表明がなされでもしないと、容易にそれを拭うことが出来なくなります)
私はねえ、人の目、公の目というもの、世の中の常識、良識というものを充分に弁えて...
いないi...んな訳無いじゃあありませんかi
一体この世の常識に、"意識が向いたらパッと..."、だの"見えざる導師が降臨i"なんてことがあるかってんですi
"ありゃあ、又ヘンなこと言ってる"何て、んなこと気にしてて、お天道様を拝めるかってんですよi
いや、私は自意識過剰の人間なので、そういうことを全然気にしない訳じゃないのですが、モひとつ別の目で見られているのを意識させられているのです。
それがあの"すべてを見透す目"、神の目みたいに感じているものです。
あのご照覧を受けている...いつもいつも審判されているようなものです。
と言っても、この世の法廷みたいなものじゃなく、条文みたいに定められた法がある訳じゃありません。
そういう他律的なものじゃなく...え、自分の判断?(じゃあ、さっきと同じなのでは?)でもなくて、もっと内省して(これは、通常の意味ではなく、その照明に照らされる方に意識が向けられるということです)チッポケな私でない私にゆだねられているのです。
そして、私がしばしば"普遍性"ということを言い表しているのは、この光に照らされている感じから来ているのです。
この普遍性は、衆目の中に覆われていて見えなくなっているもので、世の中で普遍性というものは、その他大勢、世間一般の観方、感じ方に取って代わってしまっているのです。
特定の団体にしか通用しない、"これだけが正しいという真理、やり方"への固執...前世、何々次元...確かめようの無い教えへの、丸投げされた内省無き迎合...そういうものが果たして主我の思いを超えた光に照らされているのでしょうか?
表層的な思いの奥に"どうしても、これでいいんだろうか...頷くことが出来ない"、というものは感じないでしょうか?
本心で感じていないものは、どこかに遮る、曇ったものが思いに残っていて、直射日光に当たるような、"青空の下にまみえている"という感じがしてこないものです。
そこで自分の小智でない、上智にゆだねられるかどうかは、"自分の理解は正しいものとは限らない"という自覚にかかっているのでしょう。
そうして、その"照らされた"内容のものが正しいかどうかは、どこまでも自分の思いを超えたものにゆだねられなければならないでしょう。
読者におかれましても、そう思われて当然ですよね?
もっとも、それ以前に"何を書いているのか分からん!"という方もおられるかもしれませんが...
ただ、いつも意識している、させられていることは、大体何ら確証出来ないことに対して、決めつけた、断定的な表現を使わないこと、予見に基づいて読み手に先入観、固定観念を与えてしまう表現をしないことなどです。
だってねえ...人の目、公の目というものがあるじゃないですか...。
そういうものに照らして、恥ずかしくなることは書けないじゃありませんか?
例えば私がチョイと知ってる某が、"フリーメーソンは、魂と引き換えに、チャクラを開いて人心を操作している..."、"日本で近年起きている大地震は、陰謀団体が絡んで人工的に起こしている..."等々発信してて、こんなことをよく臆面も無く、公共に流せるものだと思います。(一度人の目に、"ハハーン、あれはああいうことを平気で言っちゃう人間なんだi"、というイメージが焼き付いてしまうと、よほど本人から"反省?"の表明がなされでもしないと、容易にそれを拭うことが出来なくなります)
私はねえ、人の目、公の目というもの、世の中の常識、良識というものを充分に弁えて...
いないi...んな訳無いじゃあありませんかi
一体この世の常識に、"意識が向いたらパッと..."、だの"見えざる導師が降臨i"なんてことがあるかってんですi
"ありゃあ、又ヘンなこと言ってる"何て、んなこと気にしてて、お天道様を拝めるかってんですよi
いや、私は自意識過剰の人間なので、そういうことを全然気にしない訳じゃないのですが、モひとつ別の目で見られているのを意識させられているのです。
それがあの"すべてを見透す目"、神の目みたいに感じているものです。
あのご照覧を受けている...いつもいつも審判されているようなものです。
と言っても、この世の法廷みたいなものじゃなく、条文みたいに定められた法がある訳じゃありません。
そういう他律的なものじゃなく...え、自分の判断?(じゃあ、さっきと同じなのでは?)でもなくて、もっと内省して(これは、通常の意味ではなく、その照明に照らされる方に意識が向けられるということです)チッポケな私でない私にゆだねられているのです。
そして、私がしばしば"普遍性"ということを言い表しているのは、この光に照らされている感じから来ているのです。
この普遍性は、衆目の中に覆われていて見えなくなっているもので、世の中で普遍性というものは、その他大勢、世間一般の観方、感じ方に取って代わってしまっているのです。
特定の団体にしか通用しない、"これだけが正しいという真理、やり方"への固執...前世、何々次元...確かめようの無い教えへの、丸投げされた内省無き迎合...そういうものが果たして主我の思いを超えた光に照らされているのでしょうか?
表層的な思いの奥に"どうしても、これでいいんだろうか...頷くことが出来ない"、というものは感じないでしょうか?
本心で感じていないものは、どこかに遮る、曇ったものが思いに残っていて、直射日光に当たるような、"青空の下にまみえている"という感じがしてこないものです。
そこで自分の小智でない、上智にゆだねられるかどうかは、"自分の理解は正しいものとは限らない"という自覚にかかっているのでしょう。
そうして、その"照らされた"内容のものが正しいかどうかは、どこまでも自分の思いを超えたものにゆだねられなければならないでしょう。