人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どうでもよくなる

2019-09-25 12:33:13 | スピリチュアル
あるスピ的な世界に関わることを言い表す時、私はしばしば"人生の裏側に踏み入れる"などと言っているのですが、どうしても"ここで生きている現実"から離れた、別の世界に飛躍してしまうという印象を読み手に与えてしまうようです。
例えば...霊界とか神界、アストラル界、メンタル界...そういう世界があるらしいことは私も知識としては知っていますけど、"現実的な意味で"それらがどういう有り様で、この現実世界と、又その各々の世界がどのように違うのか、ということなど私には全く分かりません。
というよりも...そのように違う世界に移行したように感じられることがあったとしても、矛盾した言い方ですが"ここで生きている現実"と離れたものなど何も感じられませんi
空、雲、花...見ている世界はそれまでと何も変わらないのですから...
ただ、感じ方は全くそれまでとは違う...そこで感じることは、むしろそうした"現実感覚"というものは、そうなった時に初めて鮮明に実感されるということです。
言い換えれば、思われた現実からますます疑うことの出来ない、リアルな現実が開かれるのです。
思念に任せて霊界、異次元について夢想するのも結構でしょうが、このリアリティの前ではそういうものを思い描くことは出来なくなります。
このように人生の裏側に近づくことは、だんだん現実に近づくということなのかもしれません。
そうなると、だんだん私とその現実世界とを隔てていたものが無くなってゆく感じもしてきます。
主観と客観の境界が薄れ、だんだんあらゆるものがある中心に収斂されてゆくように...そう分離感が無くなってくる感じです。
そして又、だんだんと思われた私から本当の私らしきものが顕わになってゆく...
そうそう、業生の自分から真我にだんだん近づいてゆく...
だんだん現実そのものに感じられ、だんだん一如な感じになってゆく...
そーれが、真我に目覚める道のバロメーターと言える?...
いいや...言えないi がちょーんi
わたしゃ、そんなこた言いません。"言うなi"という促しを受けてます。
そういうのは、だんだん、かくあるべき自分、高きに達した、悟った自分...そういうものを思い描いているということではありませんか?
それは、だんだん"ここの現実"から離れることと同じではありませんか?
一体、"こちらの思いで思いを超えられない"ということほどの現実というものはあるでしょうか?
ここから離れてしまうことから、この思われた、業生の"私が"何かを超え、何かに達したりするという、妄想が忍び込むのでしょう。
そういうバロメーターとか"はかりごと"がだんだん無くなってゆくのが、逆説的バロメーターになるかもしれません。
つまり、だんだん悟りに近づくとか、高きに上がるとかなどどっちでもよくなるということです。
これはあの御方にゆだねるしかありませんi ゆだねるということは、"私が"のことはどうでもいいということです。
業生の自分はそのままで、"私が"の思いは勝手に離れてゆく...
"私は私でないほど、私になってゆく..."
夏から秋へと化してゆくように、私もあの御方へと化してゆくのか...それはあの御方の思し召し次第でしょう。
コメント
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