私はこれまで何人もの信仰的な人、精神的な道を求めている人と接してきましたが、大体が現状に不満を抱いているのか、"もっと上をめざし、もっと深く究めないといけない"、という思いに駆られるようなのです。
それはごく自然な心情の表れだと思います。というか、それはこの二足歩行生物のサガなんでしょう。
そして、それには"欲望を押さえなければならない、諸々の雑念から離れなければならない、囚われてはならない..."、"いつまでもそういう心根でいるからダメなんです"...中には"ガンバろう、努力しなきゃあ、と力むからダメなんです"、という人も見受けられます。
いちいちごもっともですとも! みんな分かってるからそう言うんですよね。要するに、"変えよう、変わらなきゃ"という思いに駆られるのです。
先日もそのような会話をしている中で、私は「分かってるんだけど、中々そういう心境になれないんですよねえ...で、そうならないとますますそうならない自分を責めたりして、シンドイ思いにさせられちゃうんですよねえ..」と言ってみました。
私はしばしば会話を終わらせるようなことを言うんですが、やはり止まってしまいました(笑)
そして、又元に戻った(笑)...如何ともならない現実を突きつけられる...して、"どうにかしなくてはi"と又思考の堂々巡り、"終わりなき戦い"が始まる...
私はこのカタまった状況を変えよう?と、「ホントは変えようとする必要なんて無いのかもしれませんね?」と言うと、相手はただうなだれるだけなのでした。
うっかり"神を信じ、受け入れる"ということを言うと、"もっと、神を信じなければ、受け入れなければなりません!"、なんてことに話が行きかねないので、やめましたが、私はそこで如何に人間信仰というもの...人間の為せること、考えることが万能の神に成り代わったように、強固に我々の意識に根付いているかを知らされたのです。
神について色々言葉が交わされても、それは思い描いているのであり、思いに取り込まれたりするのです。
この堂々巡り、ガンジガラメの現実の前には、我々の力は無力なのですi
本当に悟ることと言ったらこのことの他には無いでしょう。
そこから涼風が吹き込んできます。
蒸せかえるような、淀んだ、重い空気が心地よい、優しく心身に染み渡ってゆくものに自ずと変わるのです。
私には昔からこう見えて?(先の会話の中でもやらかしたのですが...)短気で一旦火が付くと、誰にも止められなくなるようになるとか、自覚されている欠点があります。
しかし、ここ最近そのことをあまり反省しません。少なくともそれ故に自分を責めることはほとんどありません。
このこと自体が社会生活をする上で由々しき欠点なのかもしれませんが...。
しかし、私はこの例えようのない、愛と平安を運ぶ涼風を戴いているのです。自分で自分を抑えるのでなしに、これで抑制される(構うものかi、とかやってるんですが、いつの間にかじんわりとしたものに包まれて...)のです。
"それでいい"...
神はあなたの思い、力という限界内には居ません。その限界を思い知らされることから神の幕屋は開かれるでしょう。
"そうしなければならない"のでなく、自ずからこの頭はへり下るのみ...。
それはごく自然な心情の表れだと思います。というか、それはこの二足歩行生物のサガなんでしょう。
そして、それには"欲望を押さえなければならない、諸々の雑念から離れなければならない、囚われてはならない..."、"いつまでもそういう心根でいるからダメなんです"...中には"ガンバろう、努力しなきゃあ、と力むからダメなんです"、という人も見受けられます。
いちいちごもっともですとも! みんな分かってるからそう言うんですよね。要するに、"変えよう、変わらなきゃ"という思いに駆られるのです。
先日もそのような会話をしている中で、私は「分かってるんだけど、中々そういう心境になれないんですよねえ...で、そうならないとますますそうならない自分を責めたりして、シンドイ思いにさせられちゃうんですよねえ..」と言ってみました。
私はしばしば会話を終わらせるようなことを言うんですが、やはり止まってしまいました(笑)
そして、又元に戻った(笑)...如何ともならない現実を突きつけられる...して、"どうにかしなくてはi"と又思考の堂々巡り、"終わりなき戦い"が始まる...
私はこのカタまった状況を変えよう?と、「ホントは変えようとする必要なんて無いのかもしれませんね?」と言うと、相手はただうなだれるだけなのでした。
うっかり"神を信じ、受け入れる"ということを言うと、"もっと、神を信じなければ、受け入れなければなりません!"、なんてことに話が行きかねないので、やめましたが、私はそこで如何に人間信仰というもの...人間の為せること、考えることが万能の神に成り代わったように、強固に我々の意識に根付いているかを知らされたのです。
神について色々言葉が交わされても、それは思い描いているのであり、思いに取り込まれたりするのです。
この堂々巡り、ガンジガラメの現実の前には、我々の力は無力なのですi
本当に悟ることと言ったらこのことの他には無いでしょう。
そこから涼風が吹き込んできます。
蒸せかえるような、淀んだ、重い空気が心地よい、優しく心身に染み渡ってゆくものに自ずと変わるのです。
私には昔からこう見えて?(先の会話の中でもやらかしたのですが...)短気で一旦火が付くと、誰にも止められなくなるようになるとか、自覚されている欠点があります。
しかし、ここ最近そのことをあまり反省しません。少なくともそれ故に自分を責めることはほとんどありません。
このこと自体が社会生活をする上で由々しき欠点なのかもしれませんが...。
しかし、私はこの例えようのない、愛と平安を運ぶ涼風を戴いているのです。自分で自分を抑えるのでなしに、これで抑制される(構うものかi、とかやってるんですが、いつの間にかじんわりとしたものに包まれて...)のです。
"それでいい"...
神はあなたの思い、力という限界内には居ません。その限界を思い知らされることから神の幕屋は開かれるでしょう。
"そうしなければならない"のでなく、自ずからこの頭はへり下るのみ...。