"悟りと救い"というものは、大体において宗教的、精神的道では切り離されないものと考えられていますね。
ところが、最近の覚醒とか一瞥とかワンネス体験に与ったという報告の中で、時に"そういう体験なんかたいして意味など無いんですよ..."、"自分自身のことも世界のことも、何んも意味など無いってことを見抜いちゃったんです..."と、ホントにある意味で悟りめかした、他人行儀かつ虚無的なことを伝える言葉に接します。
こういう人たちって、そこで"救われたi"という実感を持たないのでしょうか?
それとも渦中にあった時、その直後には感じていたけれど、ほとぼりが覚めるにつれ、それが薄れてしまうのでしょうか?
救いと言っても、それは人それぞれ捉え方、感じ方はあるでしょう。
現実生活に即したことだったら、病苦や生活苦から救われることだったり、そういう表面には表れない心の悩みからのものだったり...
ともかく私には、その実感が持てないということが分からない、信じられないのですi
(以下のことは、あくまで私が感じたことを記すまでで、これが正しい真理だと言っている訳じゃありませんi 念のため)
その私が実感したことというのも、一口じゃ言えないことなのですが、あえてその一端を切り取って言えば..."諸々のトラワレからの解放"ということになるでしょうか?...
それまで私という人間が、如何に"トラワレ自体が生きている"と思えるほど、それを背負い込んで居たかを思い知らされたのです。
そういう牢獄のような状態から自由になることは、非常に深みを内包した"救われ"だと思います。(もっとも、これはそういう局面が開かれたということで、完全に救われたということではないのですが)
このことを強く感じたのは、あたかもこのあらゆる混迷、不調和、不自由を抱え込んだ現実世界と、パラレルのように私の内面に写し出された、有機的、普遍調和世界において、私は私である自由を感じたまま、他との共同的在り方を示されたことなのでした。
そこで私は単なる私だけの救いにとどまらない、"救済"という意味合いのものも感じたのです。
さらに言えば、それは、その救いと救済とは切り離すことが出来ないということだったのです。これは私という個体とその有機的つながりがそうした有り様、全一的になっているということです。
これは自由、調和ということに関して言っていることですが、そのことに限らず救いと救済の問題にはもっと根本的なものがあります。
そのものを欠いてはすべては無いi
これを欠いたらホントにホントに、人生の意味も私も宇宙もなーんも無いと言っていいでしょう。
自由、調和、そう感じている私をあらしめるもの...そうですi 救い、救済とは神的なものが臨むということです。救いと悟りというものは切り離せないのは、こういうことなのです。
ここに、私と真向かいに臨んで来られる...怒れる神、裁く神、遥か遠くに居て、思い描くことしか出来なかった神が、ここに...
これを救いと言わずして何であろう...神が救ったり、救済するか、どうかではないi 神のみ現れ、臨むこと自体がそうなのではないでしょうか?
救済ということについては、勿論それは私がどうこう出来るもんじゃありません。
ライトワーカーが何をするのか知りませんが、私の救いは先述したように、それのみでメデタシになってしまえば、それこそオメデタイことになってしまうでしょう。
救われたという実感はあるものだけれど、どうしても心の底からそういう風には感じられないものは残るのです。
とにかく...私は今示されていることをさせられるのみi それは神的なものを表してゆくこと...それが救済につながるかどうかは神のみぞ知ることでしょう。
そして、このことは昨日記した神の、"私はお前を離さないi"という呼びかけへの応答なのですi
"主よi 私はあなたを離れませんi"
ところが、最近の覚醒とか一瞥とかワンネス体験に与ったという報告の中で、時に"そういう体験なんかたいして意味など無いんですよ..."、"自分自身のことも世界のことも、何んも意味など無いってことを見抜いちゃったんです..."と、ホントにある意味で悟りめかした、他人行儀かつ虚無的なことを伝える言葉に接します。
こういう人たちって、そこで"救われたi"という実感を持たないのでしょうか?
それとも渦中にあった時、その直後には感じていたけれど、ほとぼりが覚めるにつれ、それが薄れてしまうのでしょうか?
救いと言っても、それは人それぞれ捉え方、感じ方はあるでしょう。
現実生活に即したことだったら、病苦や生活苦から救われることだったり、そういう表面には表れない心の悩みからのものだったり...
ともかく私には、その実感が持てないということが分からない、信じられないのですi
(以下のことは、あくまで私が感じたことを記すまでで、これが正しい真理だと言っている訳じゃありませんi 念のため)
その私が実感したことというのも、一口じゃ言えないことなのですが、あえてその一端を切り取って言えば..."諸々のトラワレからの解放"ということになるでしょうか?...
それまで私という人間が、如何に"トラワレ自体が生きている"と思えるほど、それを背負い込んで居たかを思い知らされたのです。
そういう牢獄のような状態から自由になることは、非常に深みを内包した"救われ"だと思います。(もっとも、これはそういう局面が開かれたということで、完全に救われたということではないのですが)
このことを強く感じたのは、あたかもこのあらゆる混迷、不調和、不自由を抱え込んだ現実世界と、パラレルのように私の内面に写し出された、有機的、普遍調和世界において、私は私である自由を感じたまま、他との共同的在り方を示されたことなのでした。
そこで私は単なる私だけの救いにとどまらない、"救済"という意味合いのものも感じたのです。
さらに言えば、それは、その救いと救済とは切り離すことが出来ないということだったのです。これは私という個体とその有機的つながりがそうした有り様、全一的になっているということです。
これは自由、調和ということに関して言っていることですが、そのことに限らず救いと救済の問題にはもっと根本的なものがあります。
そのものを欠いてはすべては無いi
これを欠いたらホントにホントに、人生の意味も私も宇宙もなーんも無いと言っていいでしょう。
自由、調和、そう感じている私をあらしめるもの...そうですi 救い、救済とは神的なものが臨むということです。救いと悟りというものは切り離せないのは、こういうことなのです。
ここに、私と真向かいに臨んで来られる...怒れる神、裁く神、遥か遠くに居て、思い描くことしか出来なかった神が、ここに...
これを救いと言わずして何であろう...神が救ったり、救済するか、どうかではないi 神のみ現れ、臨むこと自体がそうなのではないでしょうか?
救済ということについては、勿論それは私がどうこう出来るもんじゃありません。
ライトワーカーが何をするのか知りませんが、私の救いは先述したように、それのみでメデタシになってしまえば、それこそオメデタイことになってしまうでしょう。
救われたという実感はあるものだけれど、どうしても心の底からそういう風には感じられないものは残るのです。
とにかく...私は今示されていることをさせられるのみi それは神的なものを表してゆくこと...それが救済につながるかどうかは神のみぞ知ることでしょう。
そして、このことは昨日記した神の、"私はお前を離さないi"という呼びかけへの応答なのですi
"主よi 私はあなたを離れませんi"