スピ界隈ことにノンデュアリティの界隈で、しばしば人々を混乱に陥れてしまう要因は、ある特殊な意識状態などで起きるようなことを、さもごく普通に生活している場においても起き得るかのように説かれることにあると思います。
よく考えてみれば、これは実に当たり前のことで、我々はプラーナを摂取しているだけでは、ちっとも腹の足しにならないのであります。
それを"これが究極の真理ですi、真理はこれっきゃありませんi"、なんて誇張したりするからその界隈には難民で溢れたりするのでしょう。
意識がサマーディのような状態に、普段より明晰になっていて、思考マインドが薄れている状態では、確かに"個人という私、考えたり、行為をしている私は居ない"という感じになったりします。
ということは、何らかのその状態を目指しての瞑想や、形をもった祈りというのは、その状態にあっては、"それをしているあなたは居ない"ので、落ちてしまうということです。
しかし、ノンデュアリティの教師の中には、これに関してそういう修行的なアプローチというものを否定してしまう人も居るのです。
私も時に否定的なことを言ったりしますが、それはあくまで上記のような状態を念頭に入れてのことなのです。
これはそういうものに限らず、ある観念を信じることー"信仰"についても言えることですが、否定しているというよりは、現実問題としてそういう状況下では、意志想念に則ったアプローチに取り組むことは不可能であることを言っているのです。
"じんじんと、心身に思いを超えたものの息吹が浸透してくる...私の中も外もそれに満ちてくる...
自ずから、ことは行為者無しに行われる...この見えない導きにゆだねるのみ..."
この自然(じねん)なる事態に、人為的に付け加えることは一切無用なのですi...いいや、それは見えないバリアに阻まれて出来得ないのですi...
無理なことをやろうとするときっと無理が生じるでしょう。クンダリーニとかを自分の意志で操作しようとする人間の気が知れませんi
で、そうでない場合は別に"やり方"を否定する理由など無いのです。
やりたい人は大いにやったらいいでしょうi もっとも、手放しでそういうこと言うのは無責任というものですけど...
それで、ああいう状態になるのか、ヘンなことになるのかは知らないのですi 私はそういう決まった方法に則っていないので...
ただ、手放しで言えることは、手放しになる事態になったら、それに任すっきゃないということです。
こんな訳で、私はある意味ノンデュアリティ指向なものでして、"特定の教えもメソッドも要らない...あなたは既に悟って居る"のですから、何もしなくていいんですよ、そのままでいいんですよ...
なんて..."言える訳ないだろーっi それはそうなった時に言えっつーのi"
"何もしない、そのままでいい"、ということには、ちゃんと裏があるのです。
これは、いつも言うように、そうあらしめるものの思し召しなのです。そのものあってのものなのです。
どうやったら、そうなるか分からないのはこれが大きな理由なのです。
といって、ボケーッとしてたって、与れるもんですかi 鳥のフンが落ちてくるくらいでしょう。
最愛のものを恋慕う気持ち...ポンと意識すれば、自ずと向かわされる...
これはやっぱり形なき、祈りと瞑想の裏側と言うべきか?
よく考えてみれば、これは実に当たり前のことで、我々はプラーナを摂取しているだけでは、ちっとも腹の足しにならないのであります。
それを"これが究極の真理ですi、真理はこれっきゃありませんi"、なんて誇張したりするからその界隈には難民で溢れたりするのでしょう。
意識がサマーディのような状態に、普段より明晰になっていて、思考マインドが薄れている状態では、確かに"個人という私、考えたり、行為をしている私は居ない"という感じになったりします。
ということは、何らかのその状態を目指しての瞑想や、形をもった祈りというのは、その状態にあっては、"それをしているあなたは居ない"ので、落ちてしまうということです。
しかし、ノンデュアリティの教師の中には、これに関してそういう修行的なアプローチというものを否定してしまう人も居るのです。
私も時に否定的なことを言ったりしますが、それはあくまで上記のような状態を念頭に入れてのことなのです。
これはそういうものに限らず、ある観念を信じることー"信仰"についても言えることですが、否定しているというよりは、現実問題としてそういう状況下では、意志想念に則ったアプローチに取り組むことは不可能であることを言っているのです。
"じんじんと、心身に思いを超えたものの息吹が浸透してくる...私の中も外もそれに満ちてくる...
自ずから、ことは行為者無しに行われる...この見えない導きにゆだねるのみ..."
この自然(じねん)なる事態に、人為的に付け加えることは一切無用なのですi...いいや、それは見えないバリアに阻まれて出来得ないのですi...
無理なことをやろうとするときっと無理が生じるでしょう。クンダリーニとかを自分の意志で操作しようとする人間の気が知れませんi
で、そうでない場合は別に"やり方"を否定する理由など無いのです。
やりたい人は大いにやったらいいでしょうi もっとも、手放しでそういうこと言うのは無責任というものですけど...
それで、ああいう状態になるのか、ヘンなことになるのかは知らないのですi 私はそういう決まった方法に則っていないので...
ただ、手放しで言えることは、手放しになる事態になったら、それに任すっきゃないということです。
こんな訳で、私はある意味ノンデュアリティ指向なものでして、"特定の教えもメソッドも要らない...あなたは既に悟って居る"のですから、何もしなくていいんですよ、そのままでいいんですよ...
なんて..."言える訳ないだろーっi それはそうなった時に言えっつーのi"
"何もしない、そのままでいい"、ということには、ちゃんと裏があるのです。
これは、いつも言うように、そうあらしめるものの思し召しなのです。そのものあってのものなのです。
どうやったら、そうなるか分からないのはこれが大きな理由なのです。
といって、ボケーッとしてたって、与れるもんですかi 鳥のフンが落ちてくるくらいでしょう。
最愛のものを恋慕う気持ち...ポンと意識すれば、自ずと向かわされる...
これはやっぱり形なき、祈りと瞑想の裏側と言うべきか?