人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

絶対他者としての神

2021-05-04 10:38:22 | 
私がいつも神という言葉をやたらと使いたがる大きな理由...それは一口じゃ言えないことなのですが、一番の理由と言っていいものは、これまで何度も触れてきたことです。
それは生来の自意識過剰である私の、宿命的な問題と言えるでしょう。
"私はついに悟りを得ましたi、神と一つになりました、カルマは全て消えました、霊的にウンと高い境地に達しました..."、異臭ぷんぷん鼻に突く...マトモな人だったら誰しもそう感じるでしょう。
私はね、勿論そんなことあからさまに言ったりしないですよi(何かそういうことを忍ばせること言うことはあってもね..."ここは小声")え?
だって私マトモですもん?...良識ってヤツを弁えてますもん。本当か?...う、う、う...そう思いたいだけなんだよおi
"私は悟った"...そう思いたかった...過去形?...今は?...い、今もだよi
私は、どうしてもこういう主我的な思いを払拭出来なかったのです。それから離れなければ、本当の悟りには至れないということは頭では知っているのです(いや、だからね、そういう思いというのはどこまでも影のように付いて回るのですよ)。
でも、私自らからはどうにもならないのです。
そして、そういう問題を抱えている時、自分が神的なものと一如(これは、"一つになりました"という言い方と微妙に異なる言い回しなのです)になっている、愛、平安の内にある、という感じを少しも持てなかったのです。
この理由は、もうここに言い表わされているように明瞭なことです。思いに囚われている、思いが超えられていないからです。
ところがその自分の無力感からか、祈るような気持ちで神に、神的なものに意識を向けてみると...アレよアレよという間に、雲が晴れるように思いが離れてゆくのが体感されたではありませんかi...
思いに囚われている私にとって神は、私を超えて上より臨んで来るもの、絶対他者として認識されているのです。
神は絶対的に私の思いを超えている...そういう超越者、他者としてあるから、意識が向けられ、思いから離れられることが出来るのです。
だからと言って、私はどっかの神学者のように、神は絶対他者であると決めつけるつもりなど毛頭ありません。
他者であるからこそ、私の実存に臨み、私自身の内奥と切り離されないようにも一如のものと、内在したものとなりたもうのです。
これは、"私がそうなりました"、とは全然違うことを言っているのですよi
"私が"じゃない、主我的な思いでなく、どこまでも神が主体、主導なのですi
神無くして自意識の虜のような私は、袋小路に追い込まれて窒息されてしまうしかありません。
その他、日常の諸々の苦難に纏わる思い..."私は思いが全て無くなりました"などと言える訳がありません。
しかし、そうなっている私とは別に、神に思いが向けられることで、その臨在に与ることが出来るのです。
今日は、否応なしに人間存在が袋小路に入り込むか、そこから開かれ、超えられるかの節目に立たされている感がしてきます。
神を信じようと信じまいと、それが何であれ、人間は人間を超えせしめるものに託さない限り未来は無いのではありませんか?
コメント
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