「われわれにとっては、ダンマよりも如来という表現の方が、いっそう親しいものであり、肌身に感応されるものであり、より人格的であるといえよう」
(玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」/講談社学術文庫)
「キリストに本当に出会ったら、ひれ伏し、倒れ、降参することになるはづです」
「聖霊の現実は言うまでもなく愛の現実で、愛ほど現実感のつよいものはないです」
(小池辰雄著作集第三巻「無の神学」/著作集刊行会)
私が"じんじんしてくる"と、具体的な感覚を伴うものとして表現しているものは、ある種のバイブレーションのような感じ、私の存在を通してそうしたエネルギー交換が起きていることを言っているのです。
私は昭和57年当時、この感覚を取り戻し、ひいては人生を一変するであろう、精神的覚醒に与らんと願い求めていたのでした。
聖霊といわんか、観音妙智力といわんか、とにかくそういう不可知のエネルギーに触れれば、劇的変容が起こるものと思い込んでいたのです。
しかし、当時夢中になって読んでいた「ヨーガ霊動法」という本を詳しく紐解けば...密教的観法に関わることで、何か邪霊的な因縁に巻き込まれたとか、日本におけるスブド創設に関わったある会員が、常軌を逸した行動に走ったとか、ラティハンを修することにより精神的バランスが崩れるという事例がある、など好ましくないことも色々書かれてあったのです。
このことが、求めてやまない気持ちを抱きながらも、一歩踏み込めない気持ちにさせていたのも事実なのでした。
"ここには何かが足りないか、何か純粋なものに向かわせない余計なものが介在、混在しているのではないか?...小池先生や手島先生(当時は、聖霊体験に導く道も各種の霊動法に関係していると理解されていたのです)の本から受ける感じとは何かが違う..."
私は薄々と感じ取っていたのです。
このことは翌年の夏、念願が叶ったのか、その精神的目覚めに与った時に、ありありと示されたのですi
覚醒体験そのもののことでしたら、先の超エネルギー的なものに触れることによって起こり得るでしょう。
しかし、そのことと最愛なるもの、神的な現存と意識の内奥で出会うということは、別のことと言わねばならないでしょう。
覚醒したからと言って、その後の人生が幸福に導かれるとは限らない...それによってむしろ狂ってしまうことだってあり得るのです。
故に..."体験すりゃいいってもんじゃないi"、と言うのですi
要するに、愛と平安に導かれるか、どうかということに尽きるでしょう。
あるバイブレーション感覚がもたらされたとして、何か意識の拡大みたいなこともありますが、それだけでそういうものに導かれたりはしないのです。私の経験では。
これが愛と平安は、神的な現存と共にあると言っている所以なのです。
精神的目覚めにあっては、あるエネルギー交換、その流入といったものがあるのは確かなことでしょう。
しかし、その力は、神的なものとイコールであるとは言えないでしょう。
神的なものから来るのかもしれませんが、神的実在はもっと包括的なもので、もっと我々の深部に息づき、開示してくるものと言えるでしょう。
とはいえ、言うまでもなく、あの当時はこういうことは、意識的に、自覚的になっていなかったのでした。
生来からの自我性の強さから自由になっていなかったのです。何とも神経症じみてるではないか?
"すべてがガラス越しに映っている...ありありと真向かいに会えるものは無いのか?...ああ、無条件に僕が飛び込んでゆけるもの、そこでぶっ倒れても構わないものは無いのかi"
神経症じみた私の精神の奥で、こういう叫びに駆られるものが、息づいているのをどっかで覚えられていたのでした...。
(玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」/講談社学術文庫)
「キリストに本当に出会ったら、ひれ伏し、倒れ、降参することになるはづです」
「聖霊の現実は言うまでもなく愛の現実で、愛ほど現実感のつよいものはないです」
(小池辰雄著作集第三巻「無の神学」/著作集刊行会)
私が"じんじんしてくる"と、具体的な感覚を伴うものとして表現しているものは、ある種のバイブレーションのような感じ、私の存在を通してそうしたエネルギー交換が起きていることを言っているのです。
私は昭和57年当時、この感覚を取り戻し、ひいては人生を一変するであろう、精神的覚醒に与らんと願い求めていたのでした。
聖霊といわんか、観音妙智力といわんか、とにかくそういう不可知のエネルギーに触れれば、劇的変容が起こるものと思い込んでいたのです。
しかし、当時夢中になって読んでいた「ヨーガ霊動法」という本を詳しく紐解けば...密教的観法に関わることで、何か邪霊的な因縁に巻き込まれたとか、日本におけるスブド創設に関わったある会員が、常軌を逸した行動に走ったとか、ラティハンを修することにより精神的バランスが崩れるという事例がある、など好ましくないことも色々書かれてあったのです。
このことが、求めてやまない気持ちを抱きながらも、一歩踏み込めない気持ちにさせていたのも事実なのでした。
"ここには何かが足りないか、何か純粋なものに向かわせない余計なものが介在、混在しているのではないか?...小池先生や手島先生(当時は、聖霊体験に導く道も各種の霊動法に関係していると理解されていたのです)の本から受ける感じとは何かが違う..."
私は薄々と感じ取っていたのです。
このことは翌年の夏、念願が叶ったのか、その精神的目覚めに与った時に、ありありと示されたのですi
覚醒体験そのもののことでしたら、先の超エネルギー的なものに触れることによって起こり得るでしょう。
しかし、そのことと最愛なるもの、神的な現存と意識の内奥で出会うということは、別のことと言わねばならないでしょう。
覚醒したからと言って、その後の人生が幸福に導かれるとは限らない...それによってむしろ狂ってしまうことだってあり得るのです。
故に..."体験すりゃいいってもんじゃないi"、と言うのですi
要するに、愛と平安に導かれるか、どうかということに尽きるでしょう。
あるバイブレーション感覚がもたらされたとして、何か意識の拡大みたいなこともありますが、それだけでそういうものに導かれたりはしないのです。私の経験では。
これが愛と平安は、神的な現存と共にあると言っている所以なのです。
精神的目覚めにあっては、あるエネルギー交換、その流入といったものがあるのは確かなことでしょう。
しかし、その力は、神的なものとイコールであるとは言えないでしょう。
神的なものから来るのかもしれませんが、神的実在はもっと包括的なもので、もっと我々の深部に息づき、開示してくるものと言えるでしょう。
とはいえ、言うまでもなく、あの当時はこういうことは、意識的に、自覚的になっていなかったのでした。
生来からの自我性の強さから自由になっていなかったのです。何とも神経症じみてるではないか?
"すべてがガラス越しに映っている...ありありと真向かいに会えるものは無いのか?...ああ、無条件に僕が飛び込んでゆけるもの、そこでぶっ倒れても構わないものは無いのかi"
神経症じみた私の精神の奥で、こういう叫びに駆られるものが、息づいているのをどっかで覚えられていたのでした...。