私が昭和58年夏、人生の裏側に足を踏み入れた時、思考機能が止まってしまった、ということを何度か書いています。
似たようなことはその後も数度あったのですが、そのように全く思い描いたり、追ったりすることが出来なくなってしまったことは、後にも先にもその時しかありません。
ということは、その状態のことをそのままで、あたかも見てきたように描写したり、言葉に置き換えて説明したりすることはとても困難なのです。
当然のことながら、そこで何が見えたとか、自分が異次元に移行したとかということは言い表せないのです。
しかし、そこから日常の意識状態に戻って、思考というフィルターを通し、類推し、解釈して表現することは可能でしょう。
それは、言葉で言い表わせないことを言うことに他ならないのです。
言うまでもなく、そこには多少なりとも、自分の思考によるバイアスがかかってしまうことはやむを得ないことです。
今日では、数十年前とは違って、かなり悟り、覚醒体験などの事例に接することが多くなってきましたが、それを説明しているものは一様でありません。各人各様の人生なんだから当たり前の話なんでしょうけど...
自分が信奉する宗教に結び付けるもの、霊的進化論のような精神科学的教説、量子力学などを借りたもの...これらはしかし、前記したことに照らせば、その根底にあるものはともかく、表現されたもの自体は、思考を借りた解釈と言わねばならないでしょう。
勿論私は、"それは間違っているi"などと決めつけるつもりはありません。誰だって自分の観方、感じ方に依拠しようとするのは自然な人間の在り方というものでしょう(言い換えれば、それが人間のサガというもの)。
要はこういうことを弁えた方がいいのではないか、ということです。
そこに間違ったものがあるとすれば、自説に固執し、絶対視し、他に押し付け、他説を一方的に否定してしまうような在り方でしょう。
しかしながら、こういう絶対視してしまう傾向というものもあり勝ちなことと言わねばなりません。
何故ならば、私なりに理解していることは、それは"神ったこと"(神がかったことではない)に関わることだからです。
神ったことというのは、当人には絶対的な意味を持っているのですi
それは思考を超えた、直接的なものからもたらされるものだから...言い換えると疑うことが出来ないものということです。犯すべからずもののように感じるものなのです。
各人にとって、そういうものなのであれば、お互いに尊重されるべきものでしょう。
他に強いたり、犯したりすることになれば、内なる絶対的なものは、極めて相対的な在り方に変質してしまうことになるばかりです。
私自身、思考を超えた事態のことを説明することもありますが、私の観方、感じ方が投影されることは免れないし、そこからズレたことを書いてしまうこともあるでしょう。
なるべく、頭で脚色することなく、感じた(感じることは出来る)ことをありのままに言い表すように心がけているのですが...
どう、感じるかはあなた次第です。
そうですi...これほどあなた次第のことは無いといっていいでしょう。
迂闊に他人があーだ、こーだ言っていることを信じ、迎合しちゃダメですよi
そういうのは参考程度にして、あなたが直接、絶対的なものに向き合うのが一番ですi
似たようなことはその後も数度あったのですが、そのように全く思い描いたり、追ったりすることが出来なくなってしまったことは、後にも先にもその時しかありません。
ということは、その状態のことをそのままで、あたかも見てきたように描写したり、言葉に置き換えて説明したりすることはとても困難なのです。
当然のことながら、そこで何が見えたとか、自分が異次元に移行したとかということは言い表せないのです。
しかし、そこから日常の意識状態に戻って、思考というフィルターを通し、類推し、解釈して表現することは可能でしょう。
それは、言葉で言い表わせないことを言うことに他ならないのです。
言うまでもなく、そこには多少なりとも、自分の思考によるバイアスがかかってしまうことはやむを得ないことです。
今日では、数十年前とは違って、かなり悟り、覚醒体験などの事例に接することが多くなってきましたが、それを説明しているものは一様でありません。各人各様の人生なんだから当たり前の話なんでしょうけど...
自分が信奉する宗教に結び付けるもの、霊的進化論のような精神科学的教説、量子力学などを借りたもの...これらはしかし、前記したことに照らせば、その根底にあるものはともかく、表現されたもの自体は、思考を借りた解釈と言わねばならないでしょう。
勿論私は、"それは間違っているi"などと決めつけるつもりはありません。誰だって自分の観方、感じ方に依拠しようとするのは自然な人間の在り方というものでしょう(言い換えれば、それが人間のサガというもの)。
要はこういうことを弁えた方がいいのではないか、ということです。
そこに間違ったものがあるとすれば、自説に固執し、絶対視し、他に押し付け、他説を一方的に否定してしまうような在り方でしょう。
しかしながら、こういう絶対視してしまう傾向というものもあり勝ちなことと言わねばなりません。
何故ならば、私なりに理解していることは、それは"神ったこと"(神がかったことではない)に関わることだからです。
神ったことというのは、当人には絶対的な意味を持っているのですi
それは思考を超えた、直接的なものからもたらされるものだから...言い換えると疑うことが出来ないものということです。犯すべからずもののように感じるものなのです。
各人にとって、そういうものなのであれば、お互いに尊重されるべきものでしょう。
他に強いたり、犯したりすることになれば、内なる絶対的なものは、極めて相対的な在り方に変質してしまうことになるばかりです。
私自身、思考を超えた事態のことを説明することもありますが、私の観方、感じ方が投影されることは免れないし、そこからズレたことを書いてしまうこともあるでしょう。
なるべく、頭で脚色することなく、感じた(感じることは出来る)ことをありのままに言い表すように心がけているのですが...
どう、感じるかはあなた次第です。
そうですi...これほどあなた次第のことは無いといっていいでしょう。
迂闊に他人があーだ、こーだ言っていることを信じ、迎合しちゃダメですよi
そういうのは参考程度にして、あなたが直接、絶対的なものに向き合うのが一番ですi