"意識を神的なものに向ける、意識的になる..."
こうしたことは、私の精神生活のベースそのものと言ってもいいほど重要なものなのにも関わらず、毎度のことながら説明するのが困難なのです。
これは多分、近年流行のマインドフルネス瞑想などで説かれる、"今ここにあることに気づく"、ということと関係があると思われますが、あまりそちらの修行的な面は少なく、他動的に(神的なものによって)なされるという感じが強いのです。
とにかく、そこからしか何も開かれてこないし、深まってもきません。
意識を向けるというと、向けられる対象というものがある、とフツーは考えられるでしょう?
確かにそういう感じではありますが、そうとは言い切れません。仮にその対象となるものは何かと強いて言えば、身体的に覚えられている、神的なものと共にある感覚と言ってもいいでしょう。
だから、向けるとほとんど同時に私の意識が動き、開かれてゆく...対象と私に分離感は感じられないのです。
何度も言っているように、これは私の思念、意念的な働きかけを介さないことなのです。ほとんど自然(じねん)に向けられる...
勿論、こういうことは最初から感じられていた訳じゃないですよ。
覚えている限り、はっきり感じ始めたのは40年も前のことで、途中で"消えたi"と感じたこともありましたが、定着するようになったのは、23年くらい前からです。
それ以前でも朧気ながらも感じるものがあったのです。
それは何を通してかと言ったら、祈りによるものなのでした。
それじゃあ、ここで語るだにややこしい話は抜きにして祈りをしましょうか? (フツーにですよi)
"神様、姿の見えない神様、あなたはどのようにして、私にあなたの存在を示されるのですか...
あなたが本当に居られるのでしたら、どうかハッキリと私に示して下さい..."
何の神に祈るのか、って?...だったら、"あなたはどういう神なのか、示して下さい..."、と祈ればいいでしょう?
考えていたらダメですi...あなたは考えるのか、祈るかどっちかしかないのです。
考えない、と言っても、祈っている最中に絶えず考え、雑念が出てくるからそれをやめよう、とか出来もしないようなことじゃないですよi
考えていたいのなら、それでどこに行き着くのか知らないけど、死ぬまでそうしてたらいいでしょう。
祈ることは、どこまでも考え続ける二足生物に見切りをつけることです。
出来ないから祈る...自分に絶望するから、祈り心が生まれる...本当に絶望したら祈るしかない...神、思いを超えたものに心が開かれるということになるのです。
そうなると、自分にとって、神というものがどういう御方なのかが分かってくるでしょう。それはどっかの宗教で信じられている神だろうか、人がそう言っている神なのだろうか?...
いいや...それは、自分にとり最愛の御方であるということが知られてくるでしょう...何故ならば、正に心が開かれる...惹かれてやまないという感じになってくるから...
これは私自身がそうとは知らずに、こういう道に導かれたことを言っているのです。
段々そうして、神というものを意識し始めたのです。神は私を私たらしめるものに他ならない...。
こうして、我が道は祈りから開かれたと言っていいのです。祈りが意識的になる...
そこには祈る私も対象としての神も無い...。
こうしたことは、私の精神生活のベースそのものと言ってもいいほど重要なものなのにも関わらず、毎度のことながら説明するのが困難なのです。
これは多分、近年流行のマインドフルネス瞑想などで説かれる、"今ここにあることに気づく"、ということと関係があると思われますが、あまりそちらの修行的な面は少なく、他動的に(神的なものによって)なされるという感じが強いのです。
とにかく、そこからしか何も開かれてこないし、深まってもきません。
意識を向けるというと、向けられる対象というものがある、とフツーは考えられるでしょう?
確かにそういう感じではありますが、そうとは言い切れません。仮にその対象となるものは何かと強いて言えば、身体的に覚えられている、神的なものと共にある感覚と言ってもいいでしょう。
だから、向けるとほとんど同時に私の意識が動き、開かれてゆく...対象と私に分離感は感じられないのです。
何度も言っているように、これは私の思念、意念的な働きかけを介さないことなのです。ほとんど自然(じねん)に向けられる...
勿論、こういうことは最初から感じられていた訳じゃないですよ。
覚えている限り、はっきり感じ始めたのは40年も前のことで、途中で"消えたi"と感じたこともありましたが、定着するようになったのは、23年くらい前からです。
それ以前でも朧気ながらも感じるものがあったのです。
それは何を通してかと言ったら、祈りによるものなのでした。
それじゃあ、ここで語るだにややこしい話は抜きにして祈りをしましょうか? (フツーにですよi)
"神様、姿の見えない神様、あなたはどのようにして、私にあなたの存在を示されるのですか...
あなたが本当に居られるのでしたら、どうかハッキリと私に示して下さい..."
何の神に祈るのか、って?...だったら、"あなたはどういう神なのか、示して下さい..."、と祈ればいいでしょう?
考えていたらダメですi...あなたは考えるのか、祈るかどっちかしかないのです。
考えない、と言っても、祈っている最中に絶えず考え、雑念が出てくるからそれをやめよう、とか出来もしないようなことじゃないですよi
考えていたいのなら、それでどこに行き着くのか知らないけど、死ぬまでそうしてたらいいでしょう。
祈ることは、どこまでも考え続ける二足生物に見切りをつけることです。
出来ないから祈る...自分に絶望するから、祈り心が生まれる...本当に絶望したら祈るしかない...神、思いを超えたものに心が開かれるということになるのです。
そうなると、自分にとって、神というものがどういう御方なのかが分かってくるでしょう。それはどっかの宗教で信じられている神だろうか、人がそう言っている神なのだろうか?...
いいや...それは、自分にとり最愛の御方であるということが知られてくるでしょう...何故ならば、正に心が開かれる...惹かれてやまないという感じになってくるから...
これは私自身がそうとは知らずに、こういう道に導かれたことを言っているのです。
段々そうして、神というものを意識し始めたのです。神は私を私たらしめるものに他ならない...。
こうして、我が道は祈りから開かれたと言っていいのです。祈りが意識的になる...
そこには祈る私も対象としての神も無い...。