人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りの妙

2021-05-12 12:10:52 | 祈りと瞑想
"神は思いを超えたもの...だから、あなたが思い描いている神は、あなたの想像の産物なのだ、空想の神なのだ、思いを超えない限り実在の神に出会うことは無いのだ..."
なんてことを私はいつも言っているかもしれないのですが、そんなことエラそうに言うつもりも実はありません。
そういうことはあくまで神的なもの、現臨と一つになってしまっているような意識状態に関わることを言っているのでして...それと、"神とは何ぞや、ああだこうだ"、と神を理屈ごとにしてしまう向きに対して言いたくなる場合もあるのです。
そこには祈り心というものが感じられない...
私は、精神的な道においてこれまで特別な方法に依拠して来ませんでしたが、一つ祈りというものが重要なものとしてあったことは何度か書いています。
少し、現実に即してみましょう...神について何にも思い描かれること無しに、祈ることなんて起きてくるでしょうか? 祈り心など沸いて来るでしょうか?
宗教的な人なら大概は、自分が信奉している神に思いが向けられるでしょうし、そうでない人も何らかの神的なものをイメージするのでしょう。
そこから自分の意念的な方に向かうか、自分を超えた方に向かうかで全く異なったものになってしまいます。自分の思念に任せてしまう、念力的なものと祈りとは違いますね。
自分の限界を弁えるところから祈りが生まれるのでしょう。
そうして祈っていると...祈り心が出てきて、いつの間にか何か有難い感じ、愛、安らぎが感じられてくる...そうなると、頭でイメージしていた神というものが薄らいでゆく感じになって来ないでしょうか?
観念的に思い描いていた神というものが、具体的な感覚として生きたものとして示されるようになるのです。
これが祈りの妙というものなのです。神に思いを向けるということが、どういうものかということを物語っているのです。
意識とか分かりにくいこた、ここでは言わなくてもいい...フツーに神を思うでいいのです。
だが...いつの間にか思いは超えられてしまう...
取っ掛かりは、祈りを通して神を思うことなのでしょうが、実はそのようにせしめているものがある...祈らされていることでもあるのでしょう。
私は今でも神が何であるかは分かりません。しかし、それは私の思いを超えせしめ、それと一つのものせしめるものである、ということはひしひしと感じざるを得ません。
これはもう、悟ろうとか覚醒しようとかってことじゃなくなってしまうのです。愛、平安に導かれるということは...
そういうことに意識が向けられない...これが現実で起きていることなんですよi
そういうものがあるにせよ、神的なもの抜きでは考えられません。私の現実では..."開かれる"という感じにはどうしてもなってこないのです。
とにかく、神的なものに自然に意識が向いて、パッとなってしまう...これは意識でも思いでもどっちでもいいことなんですが...これは、瞑想的なものでもあるし、思われたものよりも広く、深い意味での祈りと言っていいものでしょう。
ますます、祈ろうとしなくても、祈らされてしまうような感じになってくるのを覚えています。


コメント
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