「私はどうしても神という言葉を用いる気にならない。神という言葉に悩まされてしまう。神というこの言葉が一般的に用いられている場合の内容は、必ずしも私の考えている内容と同じではないからである」(ヴィリギス.イェーガー講話集1ー現代に甦るエックハルト的霊性」/教友社刊)
カソリック修士にして禅の師家でもある、現代ドイツの神秘思想家イェーガー師のこの言葉は多く私の気持ちを代弁してくれるものです。
何度もそういうジレンマを経験してきました。実にメンドーなことなのです。
そう...だからこそ、単純に"神"という言葉を連発していると言っていいのです。
神は愛である...おおよそ愛というものを感じさせるものは、すべてここから来るのではないか?
神は力である...神は具体的なハタラキをもって私を捉え、然るべき方に赴かせるものである。
神は照明である...すべてを、私の内奥をも照らす光である。
神は導き手である...神無くして、どうして"神無き"この浮き世を渡れ得ようか?
神は知られざる私、世界、歴史を開示するものである...
神については語り尽くすことが出来ません。そしてこのように言葉を列挙してみても、そのどれでもないということが知られるのです。
言葉を付した途端、そのものでは無くなってしまうのです。神は何によっても限定出来ないものだから...
霊能者とか特殊な人で、あるいは"神の姿を見た、声を聞いた"、という者も居るかもしれません。そのことをもって神の実在性を主張するならば、彼らは神をかかるものに限定している、囚われていると言うべきです。
神を何らかの固定的なイメージをもって捉えるならば、すべてこのような道を辿らされてしまうことでしょう。
それは、自分自身を限定させてしまうことにつながるのではないでしょうか?
神は捉えることが出来ない...思いを超えたものだから...
神はどこまでも広く、深く、そこにあらゆる属性が表されているように感じます。すべてを捉えようとすれば、脳ミソがパンクするのがオチでしょう。
私はしかし、神という一言で、その様々な属性が一つに凝縮されてしまうようなある感じを受けたりもしているのです。
これは、ここで神についてあらゆる面から感じたままを書いているうちに段々そうなってきたのです。
これは、私がそのように掴んでいるということでは全くありませんよi...掴めないんだってi
掴まえられる、捉えられるのです。これはとても局限的であり、具体的に感じられることです。あらゆるものが一つのものに内包されたように感じられるのです。
限定出来ないものが、具現的に限定して来るという感じ...すなわち全てであると同時に、一なるものという感じです。
しかし、それがどういうものかを説明することは出来ません。全く感覚的なことだから...各人が感受するしかありません。知的概念で分かったなんてのはウソですよi
要するに、神についてのこういう言葉は、ある種の象徴、隠喩なのです。
そこには言葉にならない"含み"がある...
そして、私が神について、書いている、書かされている、モ一つ大きな理由があります。
それは、惹かれてやまないものだから...
書かざるを得ないのですi...
カソリック修士にして禅の師家でもある、現代ドイツの神秘思想家イェーガー師のこの言葉は多く私の気持ちを代弁してくれるものです。
何度もそういうジレンマを経験してきました。実にメンドーなことなのです。
そう...だからこそ、単純に"神"という言葉を連発していると言っていいのです。
神は愛である...おおよそ愛というものを感じさせるものは、すべてここから来るのではないか?
神は力である...神は具体的なハタラキをもって私を捉え、然るべき方に赴かせるものである。
神は照明である...すべてを、私の内奥をも照らす光である。
神は導き手である...神無くして、どうして"神無き"この浮き世を渡れ得ようか?
神は知られざる私、世界、歴史を開示するものである...
神については語り尽くすことが出来ません。そしてこのように言葉を列挙してみても、そのどれでもないということが知られるのです。
言葉を付した途端、そのものでは無くなってしまうのです。神は何によっても限定出来ないものだから...
霊能者とか特殊な人で、あるいは"神の姿を見た、声を聞いた"、という者も居るかもしれません。そのことをもって神の実在性を主張するならば、彼らは神をかかるものに限定している、囚われていると言うべきです。
神を何らかの固定的なイメージをもって捉えるならば、すべてこのような道を辿らされてしまうことでしょう。
それは、自分自身を限定させてしまうことにつながるのではないでしょうか?
神は捉えることが出来ない...思いを超えたものだから...
神はどこまでも広く、深く、そこにあらゆる属性が表されているように感じます。すべてを捉えようとすれば、脳ミソがパンクするのがオチでしょう。
私はしかし、神という一言で、その様々な属性が一つに凝縮されてしまうようなある感じを受けたりもしているのです。
これは、ここで神についてあらゆる面から感じたままを書いているうちに段々そうなってきたのです。
これは、私がそのように掴んでいるということでは全くありませんよi...掴めないんだってi
掴まえられる、捉えられるのです。これはとても局限的であり、具体的に感じられることです。あらゆるものが一つのものに内包されたように感じられるのです。
限定出来ないものが、具現的に限定して来るという感じ...すなわち全てであると同時に、一なるものという感じです。
しかし、それがどういうものかを説明することは出来ません。全く感覚的なことだから...各人が感受するしかありません。知的概念で分かったなんてのはウソですよi
要するに、神についてのこういう言葉は、ある種の象徴、隠喩なのです。
そこには言葉にならない"含み"がある...
そして、私が神について、書いている、書かされている、モ一つ大きな理由があります。
それは、惹かれてやまないものだから...
書かざるを得ないのですi...