人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

否定、肯定、受け入れること

2021-05-10 12:09:38 | 求道、探究
こうしていつも言葉を綴っている訳ですが、言葉というものには限界があると痛感せざるを得ません。
言外のことがどうしても伝えられない...まあ、いつも書いているものはそういうものばかりなんでしょうが...
例えば私は、"受け入れる"ということをよく言います。"そのままでいい"とか...
この言葉をそのまま受けると、"肯定すること"であるかのように取ってしまう向きも多いことでしょう。
ずっと読まれている方ならお分かりかもしれませんが、非常に微妙な違いのようで、この中身は全く違うものなのですi
この違いはいつも触れている、"思いを超える"かどうか、ということに関わる結構重要なものと言えるのです。
予め言っておきたいことは、肯定することや、その反対の否定することも、それが悪いと言っている訳じゃありません。
思いから離れたところでは、何も否定されるべきものは無いのです。すべては肯定...ち、違うなあi
だから...受け入れるしかないi...少し現実に即してみましょう。
怒りの念を発してしまったi..."怒っちゃダメなんだ!"、とフツーは否定的に捉えたりするのですが、短絡的なスピの教えなんかでは、因果の法則みたいなのを持ち出して、そういうネガティブな思いを捨てて、ポジティブな思いに切り換えましょう、とか出来もしないようなことを言います。
これは、否定的な思いを否定してんだ、ってことはよく考えれば分かりますね。いくら否定したって、消えないものは消えないし、かえって自責の念という、これ又うんとネガティブな思いに囚われてしまったりします。
そこで、進んだ(?)教えなんかでは、"怒っていいんですよ、そのままでいいんですよi"、とその思いを肯定しようとしたりします。
これはかなり微妙なところに触れているのは間違いないんですが、積極的に肯定的に思おうとすると、そこからズレてしまいます。
肯定感を強めれば、否定感も強まって短絡的になったりしかねません。善いんだか、悪いんだか分からなくなる...
"怒ってしまったi"...起こってしまったんだから善いも悪いも無いのです。そういう現実の前では...
要するに否定する、肯定するとか、善いことを思おうとか、思い方をどうこうするという問題じゃないということです。
その現実が、神的なものの現前であれば...受け入れるしかないi 自分が善かろうが、悪かろうが、思いは超えざるを得ない...そのままでいいも何も、そのままになっているしかありません。
こうあるべき自分など木っ端微塵i...あるがままの自分でなければそのみ前に与ることは出来ない...否、そうなっていることが現臨にあるということなのです。
色々な教えに接して、肯定という言葉で、受け入れるということを伝えようとしているのだろうことは、私もしばしば感じることもあります。
だが、受け入れざるを得ない現実というものは、けっして肯定的に思おうとすることじゃないのですi それは"断念"されるということなのだから...
思いを超えられるということは、信じたり疑うことも出来ないということです。
神を信じられますか?...受け入れられますか?
否定か肯定かという二元対立的な思いの次元を超えた消息のことは、この違いが示されることほど人生で大きな意味を持つものは無いにも関わらず、やはり言葉を持っては言い表すことは出来ないようです。
この現実は...受け入れざるを得ないのでしょう...。
コメント (2)
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