人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

覚醒の原点

2021-05-24 12:06:31 | 覚醒
悟り、覚醒、ワンネス体験...呼び名は何であれ、今日色んな人が色んなことを言っています。
前回も書いたように、各人は思考機能が回復したところで、色々考察を加えるなどして語っている訳ですね。
しかし、そこには多く異口同音に語られることがあるのも事実です。
そこにある普遍性を見い出すことも可能でしょう。
それは、正にそういうことに与っている渦中にあることを伝えている部分のことです。
それは生に、直にそのものに向き合わされ、純粋に感覚されていることであり、考察を加えたり、解釈をしてしまう余地の無いことに他なりません。
関心のある人なら、今さら言う必要の無いほど馴染みのあることですが、大まかに言えば次のようなものでしょう。
O自分という個人が無くなる、自他が分離していない感じ、一体感。
O自己を超えた大いなるものとの一体感、導かれている感じ。
O至福感。
すべての人に聞いた訳じゃないですが、大体はこうしたものに与っているのではないかと思われます。
感じられるものは、色々はありません。一つのことに帰してしまうのではなかろうか?...そう、分離してない。
そして、この直接的な純粋経験から日常の意識状態に戻って来て、各様の解釈が生まれてくる訳ですが、そこで得てして与ったことと、思考されたこととが混同されて語られることもあり勝ちのように思われます。
あの瞬間は確かにそう感じられたものでも、それで真理が分かったと今考えられているとか...
というよりも、ワンサカ考えさせられるのがフツーというべきでしょう。フツー考えられないようなことが起きてしまったら...人間は考える動物なんですから...
現実生活とのギャップから、頭が混乱したり、人生、世界の裏側を何か見抜いた気になったりしたり...
そして、又私もそうだったように、消え去ってしまった(ように感じられる)あの瞬間を取り戻したい、という思いに駆られたりするのでしょう。"そういうのは自我の思いなんだ"、とか何とか...ああ、メンドクサi
これ、すべて思いの世界でしていることじゃありませんか?
しかし、あの瞬間はそれは超えられていた...自由だったのです!
考えている自分からじゃない、すべて与えられたものだったのですi...故に"与る"というのです。
"それはどこからもたらされたのか?" このことが蔑ろにされた時、与ることと、自分に帰してしまうこととの混同が生まれるのでしょう。
与えられたものは、こちらで操作したり、こちらに帰したり出来ないものです。
そこには、どうしても私を超えた、その本なる源泉というものがあるi
私の本に帰る、その原点というものは、そこに求めざるを得ません。
前記したあの瞬間の感覚というものは、そのものあってのことであるほど当たり前すぎることは無いのですi
体験そのもの、そのことを頭で理解したことには求められないのです。
とはいえ、知らずにその与ったものを思念で取り込んでしまうこともあるかもしれません。
だから...どこまでも意識を本なるものに向けてゆきたい...そうならざるを得ない...
常に呼び覚まされるものを感じているから...
コメント
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