人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

マイナスの自分を受け入れる

2021-05-08 10:40:39 | 求道、探究
私がいつも"思いを神的なものに向ければ、思いを超えられる"、なんてこと書いているので、さぞかし、"このヒトは、諸々の思いから自由なんだろう"、と思われる向きもあろうかと思いますが...そんなこたないi
何度も書いているように、私は生来から何かと思い煩う質でして、それがさして特別な悩み事がある訳でもないのに、ただ、思いがコンガラがっているだけになっていて、それ自体が悩み事になってしまうという、常人には理解出来ないほどのものを抱えていたのです。
しかし、それもあの"思いを超えた御方が臨んで来てくれたお陰で克服することが出来た...なんてことこたないi
克服したという覚えはないのです。克服しようとしたこともないのだから...諦めているのです。
例えば、次のような強迫神経症みたいなことは今でもあるんですよ。
私はTVで「ネプリーグ」というクイズ番組を割合観ているんですが、その中に"時間内に日本の鉄道で山の付く駅名十コ答えよi"、という問題を受けて、自分で川の付く駅名を3分以内に十コ答えてゆく、というのをやってみる...答えられないと番組で"ドカンi"となるように、上から核爆弾が落ちてきて、人類滅亡...人類の存亡は私に掛かっている..."ええっと、"武庫川"、"神崎川"、"寝屋川"(東京の人は知らない?)...ん~出てこない、どうなる、人類..."、と、そうして、これまでで3回くらいは人類は滅亡してるのですi(笑)
このように自分で自分を追い詰める、強迫するような心的傾向というものは今もあります。ジンクスをかつぐとか...道をうっかり変えると人類滅亡...(笑)
だけど、かつてのように深刻にはなりません。思いから離れられる道というものが開かれたのですからね。やはりこれは大きいことです。
しかし、克服したという風には捉えられておりません。
ヘタに"自分は克服出来た!"、などと思い込むと、克服出来ていない自分を見せられた時に、さらに否定的な思いが強化され、その自分を押し隠すように、デキル自分の仮面を装ったりします。
そうなると、思いを超えたものも開かれなくなるでしょう。
むしろ、そういう自分を否定する、排除するのでなしに受け入れる...いや、先の理由で受け入れざるを得ないというべきか?
受け入れたところから、開かれる...受け入れることで、思いの密閉空間から風が吹き込むのです。
思いのくびきの苦しさというものをイヤというほど知っているから、そういう自分だから、そこから離れることの喜び、自由というものが分かるのです。
思いに囚われる自分も居れば、超えられる自分も居る...これは思いは、思われた自分からはどうにもならないことの裏表のようなものでしょう。
どんなに自分がマイナスだろうと、ありのままの自分を受け入れなければ、神的なものも受け入れられません。
神的なものは、ありのままの自分を通して顕わになるのだから...
コメント (4)
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