例えば、悟りの境地を求めて禅寺に行って、和尚さんに、”悟りを開くには前世からのカルマを浄めなければならないのですよね?”、とか”輪廻転生から解脱するためにも悟らなければならないのです”、”もうすぐ、最後の審判のようなことが起こるので悟らなければならないのです”、というようなことを言ったとしましょう。
多分、”ここはあなたのような人間が来るところじゃない、お引き取り下さい!”、と言われるのがオチだと思いますよ!(笑)
そうでなくても、所謂悟り系スピリチュアルの教師のところに言っても、本格的な(?)教師ならきっとそう言うか、そういう思いのクセを改めるように仕向けるでしょう。
私は何人かそういう教師も知っているし、又、所謂覚醒体験に与ったという人、あるいはそういうことを真摯に求めている人とも会って、親しく交流したこともあるのです。
まず、先のようなやたらと固定観念に囚われ、自分のその信仰観念を押しつけてくるような人間にはお目にかかったことがありません。
真剣にそういうことが語られている時には、そのような観念に浮いたような話題は、全く場違いのように感じられるのです。
そうです!、我々は真剣に話し合っているのであり、夢のような空想ごとに興じている訳じゃないのです!
”お兄さん、ちと目がコワイよ!”(笑)...彼らの目は一様に一点に、ある焦点に向けられているのが分かります。自ずから意識がそのようになるようです。
これは、狂信的にある観念につかれているような人間とはまるで意識の方向性が違うということを物語っていると言えるでしょう。
端的に言えば外向きか、内向きかの違いです。心が内に向いているとは、実存的になっているということです。
前者は完全に思念世界に巻き込まれており、後者にはそれを超えた世界に開かれる契機が生まれやすいと言うことが出来るでしょう。
内向きの心こそは、本心の座が開かれる、神的なものと一体になれる土壌なのです。
私の知り合いの例の画伯は、何十年も信仰、修業生活をしていて、長いこと精神的な目覚めなどのことにも関心が無かったようなのですが、数年前にわかにそちらに向けられたキッカケは、悪いことに外向きの情報ばかり流しているカルト教師に入れ込んだからだったようです。
こういう人はそういう縁がまるで育っておらず、素養が無いということを知るべきなのです。
知識的にも、覚醒とはどういうことなのか、どういう心の状態で起こることなのか、という理解が全く足りないようなのです。見識が狭すぎる、向きが偏り過ぎている!
心の向きが変わらない限り、そうした契機は開かれないでしょう。
ま、あの宙に浮いたような、外向きの教えにトップリ浸かっている状態では無理だろう...聞く耳も持たないようだし...
自分の思い、力ではどうにもならない、神縁によらねば開かれない事態に対し、如何にも我心に駆られているようなその心的態度...魔障に陥らない方が不思議なくらいです。
救いは、多少なりとも五井先生の道に触れているということでしょうか?
そういう縁が無ければ、私もここで要らんこと書いてやしないのですが...
多分、”ここはあなたのような人間が来るところじゃない、お引き取り下さい!”、と言われるのがオチだと思いますよ!(笑)
そうでなくても、所謂悟り系スピリチュアルの教師のところに言っても、本格的な(?)教師ならきっとそう言うか、そういう思いのクセを改めるように仕向けるでしょう。
私は何人かそういう教師も知っているし、又、所謂覚醒体験に与ったという人、あるいはそういうことを真摯に求めている人とも会って、親しく交流したこともあるのです。
まず、先のようなやたらと固定観念に囚われ、自分のその信仰観念を押しつけてくるような人間にはお目にかかったことがありません。
真剣にそういうことが語られている時には、そのような観念に浮いたような話題は、全く場違いのように感じられるのです。
そうです!、我々は真剣に話し合っているのであり、夢のような空想ごとに興じている訳じゃないのです!
”お兄さん、ちと目がコワイよ!”(笑)...彼らの目は一様に一点に、ある焦点に向けられているのが分かります。自ずから意識がそのようになるようです。
これは、狂信的にある観念につかれているような人間とはまるで意識の方向性が違うということを物語っていると言えるでしょう。
端的に言えば外向きか、内向きかの違いです。心が内に向いているとは、実存的になっているということです。
前者は完全に思念世界に巻き込まれており、後者にはそれを超えた世界に開かれる契機が生まれやすいと言うことが出来るでしょう。
内向きの心こそは、本心の座が開かれる、神的なものと一体になれる土壌なのです。
私の知り合いの例の画伯は、何十年も信仰、修業生活をしていて、長いこと精神的な目覚めなどのことにも関心が無かったようなのですが、数年前にわかにそちらに向けられたキッカケは、悪いことに外向きの情報ばかり流しているカルト教師に入れ込んだからだったようです。
こういう人はそういう縁がまるで育っておらず、素養が無いということを知るべきなのです。
知識的にも、覚醒とはどういうことなのか、どういう心の状態で起こることなのか、という理解が全く足りないようなのです。見識が狭すぎる、向きが偏り過ぎている!
心の向きが変わらない限り、そうした契機は開かれないでしょう。
ま、あの宙に浮いたような、外向きの教えにトップリ浸かっている状態では無理だろう...聞く耳も持たないようだし...
自分の思い、力ではどうにもならない、神縁によらねば開かれない事態に対し、如何にも我心に駆られているようなその心的態度...魔障に陥らない方が不思議なくらいです。
救いは、多少なりとも五井先生の道に触れているということでしょうか?
そういう縁が無ければ、私もここで要らんこと書いてやしないのですが...