昨夜、妙にリアルな夢を見ました。
私は何か、歌舞伎の世界のような、しきたりの厳しい世界と関わっていて、そのことをとても不自由に、重荷に感じているのです。
そして、その業務時間が終わり、”やっと解放されるんだ!”、と思っていたら、リーダー格の人から”君、きみい!、折角のところ悪いけど、一寸頼みたいことがあるんだ、君なら勿論、やってくれるよねえ!”と催促が!...”やだよ!”と言いたいのだけれど、置かれた場を考えると断れなくて、渋々承諾してしまう私...
しかし、内心はすごく葛藤しているのです。”何でこんなことやらされなきゃ、従わなければならないのだろう?”と。
自分の正直な気持ちを伝えられない、昔の自分そのままです。そこにかつて”信じなければならないこと”に縛られていた、ある宗教教団に入っていた頃のことも重ねられていたようです。
”ああ、イヤだ、イヤだ、こんな世界から解放されたい!”と煩悶しているうち、電撃のようにあの事が閃いたのです!
”こういう時は、ほれ、神に思いを向けるってことがあるじゃないか!”...そう、思い方を変えればいいんですよ!
と、そうしようとするんですが、中々心の状態は変わってくれません。いや、内心はこんなんじゃ変わらないと感じているのです。”一体何が違うのだろう?”とモンモンとしてる内に目が醒めたんですが、いや、目覚めが悪いのなんの!...おかしいな?、どうも目覚め具合が中途半端だわい!
しかし、神に思いを向けようと、思い方を変えようとしてるのに?...
”そおじゃない、っつーの!”
ここは、とても大事なポイントなのです!
いくら思い方を変えようとしても、それは思念の力に頼るのであって、思いを超えたものに与ることは出来ないのです!
思念の世界だけしか感じられなければ、不自由、重荷に感じていて、そこから先は開かれません。思い方を変えて、一時的に思いの転換は成されるかもしれませんが、それは、同じ部屋の中の配置換えみたいなもので、部屋の外へは出られず、どこまで行っても思念の輪廻の世界は続くのです。
じゃ、どうすればいいかというと、思いを超えたものにゆだねるしかありません。
それが何かは分かりません。どうしてそういうものを知ることが出来るのでしょうか?
どうしてゆだねるという、心的な動きが生まれるのでしょう?
そのことと思い方を変えることとは、どう違うというのでしょうか?
この違いを感じるのは案外簡単だと思いますよ。自分の思念とそれを超えたものというのは!
実は、先の問題では、それは何故、自分は不自由に、重荷に感じているのか、という自覚の中に隠れているのではないでしょうか?
それは、私は本来、自由なのであり、何も重荷、障りになるものを感じなくても生きられるということを知っている、ということではないでしょうか?
そのことを感じてみて下さい!
思いを超えたものとは、その私の本来性でもあるでしょう。
そう感じると、瞬く間に私の現前が開かれてきます。そう思おうとしなくても!
(と、こういう状態で本来目覚めなければならないのです!)
それにしても、何故あんな昔の苦境を思い出すような夢を見たのだろう?
多分、自分の気持ちを正直に言い表せない、うじうじした女主人公のドラマを観たからだろう?
何にしても、ああいう夢を観るくらいなのだから、私はちっとも悟った人間じゃないってことなのでしょう。
だから、うっかり信じちゃダメですよ!
本当のことは、あなたの神に聞くのが一番!...
私は何か、歌舞伎の世界のような、しきたりの厳しい世界と関わっていて、そのことをとても不自由に、重荷に感じているのです。
そして、その業務時間が終わり、”やっと解放されるんだ!”、と思っていたら、リーダー格の人から”君、きみい!、折角のところ悪いけど、一寸頼みたいことがあるんだ、君なら勿論、やってくれるよねえ!”と催促が!...”やだよ!”と言いたいのだけれど、置かれた場を考えると断れなくて、渋々承諾してしまう私...
しかし、内心はすごく葛藤しているのです。”何でこんなことやらされなきゃ、従わなければならないのだろう?”と。
自分の正直な気持ちを伝えられない、昔の自分そのままです。そこにかつて”信じなければならないこと”に縛られていた、ある宗教教団に入っていた頃のことも重ねられていたようです。
”ああ、イヤだ、イヤだ、こんな世界から解放されたい!”と煩悶しているうち、電撃のようにあの事が閃いたのです!
”こういう時は、ほれ、神に思いを向けるってことがあるじゃないか!”...そう、思い方を変えればいいんですよ!
と、そうしようとするんですが、中々心の状態は変わってくれません。いや、内心はこんなんじゃ変わらないと感じているのです。”一体何が違うのだろう?”とモンモンとしてる内に目が醒めたんですが、いや、目覚めが悪いのなんの!...おかしいな?、どうも目覚め具合が中途半端だわい!
しかし、神に思いを向けようと、思い方を変えようとしてるのに?...
”そおじゃない、っつーの!”
ここは、とても大事なポイントなのです!
いくら思い方を変えようとしても、それは思念の力に頼るのであって、思いを超えたものに与ることは出来ないのです!
思念の世界だけしか感じられなければ、不自由、重荷に感じていて、そこから先は開かれません。思い方を変えて、一時的に思いの転換は成されるかもしれませんが、それは、同じ部屋の中の配置換えみたいなもので、部屋の外へは出られず、どこまで行っても思念の輪廻の世界は続くのです。
じゃ、どうすればいいかというと、思いを超えたものにゆだねるしかありません。
それが何かは分かりません。どうしてそういうものを知ることが出来るのでしょうか?
どうしてゆだねるという、心的な動きが生まれるのでしょう?
そのことと思い方を変えることとは、どう違うというのでしょうか?
この違いを感じるのは案外簡単だと思いますよ。自分の思念とそれを超えたものというのは!
実は、先の問題では、それは何故、自分は不自由に、重荷に感じているのか、という自覚の中に隠れているのではないでしょうか?
それは、私は本来、自由なのであり、何も重荷、障りになるものを感じなくても生きられるということを知っている、ということではないでしょうか?
そのことを感じてみて下さい!
思いを超えたものとは、その私の本来性でもあるでしょう。
そう感じると、瞬く間に私の現前が開かれてきます。そう思おうとしなくても!
(と、こういう状態で本来目覚めなければならないのです!)
それにしても、何故あんな昔の苦境を思い出すような夢を見たのだろう?
多分、自分の気持ちを正直に言い表せない、うじうじした女主人公のドラマを観たからだろう?
何にしても、ああいう夢を観るくらいなのだから、私はちっとも悟った人間じゃないってことなのでしょう。
だから、うっかり信じちゃダメですよ!
本当のことは、あなたの神に聞くのが一番!...