人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

死んでみなきゃ分からないが...②

2023-06-18 09:44:14 | スピリチュアル
昨日の続きです。
人の個性は、死後全体意識というか、大本の意識のようなものに還元されて、消え去ってしまう、という説も根強くあるようなのですが、そう言ったり、信じるのは勝手でしょうが、本当のところは死んでみなきゃ分かりません。
だからこういうことは、生きている人がそれに近いような体験をし、それを通して類推するしかないのです。
おお、そうだ!、“臨死体験“ってヤツだ!...それは正に生きている人間にしか与れないことに違いないんですよ!...死人にクチ無し。
で...その大本の、私はよく“普遍意識“と呼んでいるのですが、“普遍性“というものを抽象観念でなしに、自己意識と分かちがたく、目の当たりに感じたことからそう表しているのです。
こういうことは、個性の拠って来たる、その自己がそれに完全に還元されてしまえば、こうして表現すること自体、不可能なのです!
つまり私は普遍なるものと一つとなる...そういう状態に帰ったということ...正に“回帰“したということをキョーレツに感じたのです。それが自己なるものの本来性と言えるでしょう。
そこでは、自己の後天的要素、“何の誰べい“という一個人性はその普遍意識に還元されるように、後退してしまいます。
自己は、その普遍意識に、正に“つながっている!“という帰属感というものもあるのですが、それとは別に私は私である、という後天的なものでない、適切な言い方は難しいのですが、本来的な個性というものもキョーレツに感じているのです。(“別に“、というのは感じ方を言っているのであり、実際は一つのものなのかどうかは分かりません)
つまりこのことは、この言い表し難い、“すべてで一つ“、ということを目の当たりにさせるものは、どこから来るのか、ということを言いたいのです。
そして、そうした“すべてで一つである私は生き通しのもの“、という感覚がもたらされるのです。
この感じは、思考機能が後退した、純粋意識が顕わになった状態にあってのものなのであるのは言うまでもありません。
だから、“すべてのカルマを清算しなければならない“、とか“すべてのチャクラを開かなければならない“だののことは、思考の産物だということが分かるのです。どっからもそんな思いなど出てきゃしません!
しかしながら、上記したようなことは、“目のまだ黒い“宗教やスピに関心を持つ方なら、私もそうであるように、一度はどっかで聞いたかして、そういうものに与りたいと、いや、帰りたいと思っているのではないですか?...
本来の自分とは、あらたに獲得したり、到達するようなものでなく、顕わになっていないだけで、元々ここに在るのです。
何度も言うように、死んだ後のことは分かりません。多分、誰にも分からないようになっているのでしょう。
しかし、少なくとも生きているうちからその未知なる世界についての、なにがしかのことは感じることは出来るはずです。
そして、それは人生をより広く、深く、より幸福に生きることにつながるのではないでしょうか?!
コメント
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