人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

煩悩即菩提

2023-06-06 03:44:29 | 仏教関連
大乗仏教では、よく「煩悩即菩提」などと説かれたりして、諸種の解釈があるようですが、私自身が感じたことを書いてみたいと思います。
その中に、”煩悩の本体は真如と一つなのだから、そのまま菩提につながるのだ...”、というようなのもあるようですが、一寸抽象的な感じを受けて、私の心根には響いて来ません。
煩悩というものは、外から眺めているようなものでは無いはずです。一般論のように語られるようなものに、煩悩がそのまま菩提に開かれる、ということが実存に即したものとして伝わって来ないのです。
煩悩の苦しみを味わっているのは、言うまでもなく私自身なのです。
当然、その苦しみから離れたいと願うものですよね。
しかし、この思い煩うばかりの自分からは、どうにもその宿業のように心根に絡み付くような苦しみから離れることは出来ないのです。
その現実が心底感じられた時、こちらの願いはあちらの願いにつながる...
それは、浄土系仏教、特に親鸞さん的には、”弥陀の本願”により頼む以外に救いの道は開かれないことに覚めさせられるということ...自分の思い、力を超えたものに意識が向かわせられる、ということなのです。
煩悩こそは、菩提に開かれる契機に他なりません。それは全く即してあるもの、直ちに開かれるものなのです。
言い換えると、煩悩というカルマ的な自分の力の及ばない作用が、そのままダルマ(ダンマ)という、自分の力を超えたハタラキにつながる、ということではないでしょうか?
その契機は、全く全託の契機でなくて何であろうか?
然るに、私の知人の如く何故、”目覚めるためには、過去世からのカルマをすべて浄めなければならない!”だの、”すべてのチャクラを開かねばならない!”だの、”霊的階層の何レベルまで昇らなければならない!”だの、何一つ自分自身に直接示された訳でもない、空想ごとに基づく、目覚めに致る条件をわざわざ設え、囚われなければならないのでしょうか?
かかる人間は、全託、覚醒に至る、自分が為し得る何かがあると、勝手に思念しているのです。それも自分自身が直接知り得たものでも何でもない、ある教師の言葉に追従しているだけなのです。
そして、こういうものが煩悩だ、ということに気付くことすらないようなのです。
彼は、おそらく煩悩の苦しみというものを味わったことが無いのでしょう?
お気の毒という他ありません。
煩悩こそは、菩提の開かれる種なのです。業苦に捉えられることこそは、本願に抱かれることにつながるのです。
どちらも人の思い、力を超えたもの...ただ弥陀の本願にゆだねるのみ!...
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