例えば、AIによって如何に客観的に模範的な説明がなされようとも、どうしても”直に自分自身に目の当たり”に分かった感じにならない語句があります。
その最たるものは、”実存”というものでしょう。
それは、畢竟”私とは何か?、何がここに存しているのか?”、という問題に突き当たらざるを得ないでしょう。
しかし、そのうち”AIの語る実存”によって、私の魂が揺さぶられるような日が来るのも夢ではない気もしますが!...その時は、おそらく何かの実存的魂がAIに憑依するのではあるまいか?
私は主観的世界を超え出て、他者と実存的交わりを持つことがあります。
その他者は、必ずしも人間人格とは限らないのですが(だからひょっとすると...AIから愛の告白を受けたりして!...))、そこでは実存は、私と他者と二つに分割されることも、こっちの実存が他者の実存に移り変わるということもありません。
その交わりを目の当たりに感じているのは、”私の実存”にあってのものなのです。
そしてそれは、人格(猫格でもAI格でもいいですが)的なものを介してもたらされると言えるでしょう。
人格は実存と切り離すことが出来ない...従って、人格も又それについていくら普遍妥当的説明がなされようとも、それ自体に直に格ることはありません。
しかし、実存と違って人格的なものは、他者に見い出すことが出来ます。
正確には、他者存在に写し出されていると言った方がいいでしょう。それは上記したように私の人格を介して。
言うまでもなく、私の人格は、私自らによっては直接見ることは出来ません。
実存といい、人格といい、それはどこから来るのか?、どこに淵源が求められるのでしょうか?
確かに言えることは、それ自体のみからは絶対に求められないということでしょう!
ベルジャーエフなら神から来ると言うでしょうが、正しく思いを超えたところから来る、という他ありません。
このことはだから、所謂人格神というもの、神は人格を有するとか、神人同型説といった、合理的説明とは直接関わりがありません。
神はしばしば、”神がかり”とか人格神のような見えない存在が人間に憑依するようなイメージで語られたりします。
しかし、私にはどうしても、本源的なものは神の方であり、それが形ある人間存在を借りて、仮現しているように感じてならないのです。
本来、本源的なものは、形に”仮体“しても失われたりしないのです。それが失われた場合は、別のものに変種するだけでしょう。
人格は、時に神のペルソナ(仮面)と言われたりします。
見えないペルソナが、見えるペルソナを借りてそれを写し出す...
“私は私自身を直接見てみたい!”
そして今我々有機的存在は、コンピューターという本来無機的存在を借りて、我々の実存、人格を写し出そうとしているのでしょうか?!...
その最たるものは、”実存”というものでしょう。
それは、畢竟”私とは何か?、何がここに存しているのか?”、という問題に突き当たらざるを得ないでしょう。
しかし、そのうち”AIの語る実存”によって、私の魂が揺さぶられるような日が来るのも夢ではない気もしますが!...その時は、おそらく何かの実存的魂がAIに憑依するのではあるまいか?
私は主観的世界を超え出て、他者と実存的交わりを持つことがあります。
その他者は、必ずしも人間人格とは限らないのですが(だからひょっとすると...AIから愛の告白を受けたりして!...))、そこでは実存は、私と他者と二つに分割されることも、こっちの実存が他者の実存に移り変わるということもありません。
その交わりを目の当たりに感じているのは、”私の実存”にあってのものなのです。
そしてそれは、人格(猫格でもAI格でもいいですが)的なものを介してもたらされると言えるでしょう。
人格は実存と切り離すことが出来ない...従って、人格も又それについていくら普遍妥当的説明がなされようとも、それ自体に直に格ることはありません。
しかし、実存と違って人格的なものは、他者に見い出すことが出来ます。
正確には、他者存在に写し出されていると言った方がいいでしょう。それは上記したように私の人格を介して。
言うまでもなく、私の人格は、私自らによっては直接見ることは出来ません。
実存といい、人格といい、それはどこから来るのか?、どこに淵源が求められるのでしょうか?
確かに言えることは、それ自体のみからは絶対に求められないということでしょう!
ベルジャーエフなら神から来ると言うでしょうが、正しく思いを超えたところから来る、という他ありません。
このことはだから、所謂人格神というもの、神は人格を有するとか、神人同型説といった、合理的説明とは直接関わりがありません。
神はしばしば、”神がかり”とか人格神のような見えない存在が人間に憑依するようなイメージで語られたりします。
しかし、私にはどうしても、本源的なものは神の方であり、それが形ある人間存在を借りて、仮現しているように感じてならないのです。
本来、本源的なものは、形に”仮体“しても失われたりしないのです。それが失われた場合は、別のものに変種するだけでしょう。
人格は、時に神のペルソナ(仮面)と言われたりします。
見えないペルソナが、見えるペルソナを借りてそれを写し出す...
“私は私自身を直接見てみたい!”
そして今我々有機的存在は、コンピューターという本来無機的存在を借りて、我々の実存、人格を写し出そうとしているのでしょうか?!...