人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

中間的なもの

2017-01-16 17:05:24 | スピリチュアル?
スピ系ネットで”宇宙に全てをゆだねる”という言説を見かけます。
私もゆだねる、全託という事にしばしば触れていますが、上記の言葉から大いなるものにゆだねる、といったニュアンスは伝わってくるものの、実際のところ、宇宙とか空々漠々たるものにゆだねるって感じ掴めますか?
雲を掴むような感じじゃありませんか?
何が何にゆだねるのか…ゆだねようが無いという感じになりゃしないでしょうか?
いや、そもそも掴もうとしたら、ゆだねることなど出来ません! ゆだねるとは手を放す事なんですから…
だけど…大いなる宇宙のようなものが漠然と広がっているだけだったら…とにかく取っ掛かりとなるものを求め、それに”ゆだねようとするつもり”になるんじゃないでしょうか?
”ゆだねる”ということは、ゆだねさせてくれるものなしに生まれないのです。こちらからはゆだねることが出来ないのです。
この事が抜け落ちるとゆだねる事が意志的行為になったり、何かのメソッドになったりして、かえって直接的有り様からかけ離れたものになってしまいます。中間に余計なものがくっつくように…実に中途半端なことです。
”ゆだね”の取っ掛かりになるものは、こっちにはなくてあっちからハタライてくるのです。
捉えるんじゃなくて、捉えられる、ということです。
このハタラキはあたかも漠たる空から稲妻のようにこちらに切り込んでくるようなものです。
空漠たるもの自体からはハタラキというものが分かりませんが、こちらにその焦点、通路が生じ、そのエネルギーというものが知られるのです。
私は何故、多くのノンデュアリティ系スピではいつもこんな分かり切ったことを伝えていないのか不思議に思えてしょうがありません。
中間が無いという感じです。中間、中心…それはこちらから取ってつけるようなものじゃなく、元々あって、ある契機に明かされるものでしょう。
そこに二元的世界と非二元的世界とのつなぎ目が曖昧になってしまう要因が有るようです。
非二元という命題に依りかかろうとしているのでしょうか…(一方で二元的な神に依りかかってきたように…) 
何か二元的なものを連想させる神的なものを否定しているようにも思えます
私が言うハタラキとは神的なものと言い表せど、勿論神そのものかどうかは分かりません。
その他守護神、守護霊、聖霊、真我…どれでもあって、どれでも無い…何でもいいのです。千古の謎なのですから。
中間というものは曖昧なものですからね。中心というと、”これが中心!”と言い張ると、それを巡って無駄な論争が起こる種ですが、観方を変えれば、”こうだ”と決まられないもので、やはり曖昧なものなのでしょう。
だが、このハタラキが現臨すると”自分の中に中心があり、自分は中心にある”という内的実感が生まれます。だが重ね重ね”これが…”とは言えません。このものあっての中心なのです。
取っ掛かりはこの手で掴むことが出来ない…掴まれているのです。
そして子猫が親猫に首根っこを捉えられることでそうなってしまうように、安心して身をゆだねることが出来るのです。
全幅の信頼というものがあるからです。又その人なりの絶対的帰趨のようなものも生まれます。
こう考えると、我々は中心と感じているものは、非二元的なものにも二元的なものにもあるのでなく、まさにこの中間、つないでいるものに有るようにも感じられてくるのです。中間的なものと曖昧に感じるものこそが、顕わになって我々を有らしめるものとなるのではないでしょうか…
それがこれまでは安易に神という存在に置き換えられ、それを信じるという事だけで関わりが持てる、といった抽象観念によってベールが掛けられてきたのでしょう。
年も明けてビリビリ、ジンジンと我々の実相が明らかになってくるのを感じます。
これは静電気やリューマチの所為ではないでしょう…。













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