人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

善と悪

2017-01-14 14:04:10 | スピリチュアル?
宗教やスピに関わっている人たちの心理ほど”ぐちゃぐちゃ”なものはありません。
ことに”善いこと、悪いこと”を巡ってかくも混乱した様相を浮き彫りにしているものは他の世界では無いと言ってもいいでしょう。
原理主義的なキリスト教などでは、比較的神=善、サタン=悪といった分かり易い相対的な二元論が見られるものですが、何故神が善で、サタンが悪なのかという事について考えられることはあまりなく、ただ善良で正しそうな人が聖書などに依拠しながらそう語っていることをそう信じ込んでいるだけのようです。
これには多くの人が指摘しているように、幼少の頃”コワイお父さん”が言っていたことで心に根付かれていたものが、呼び起され強く意識づけられていくようです。
父なる神と言ったり、聖職者を神父と呼んだりするのもこの事と無関係ではないでしょう。
この点でややこしくなるのは、比較的新しい宗教やスピで、心の奥に根付いた善悪の葛藤が未消化のままで、”善も悪も無い”という信仰が持ち込まれることです。とにかく信者の心理で根強いのはその教えなりを”信じる事は善いこと”で、”疑う事は悪いこと”なのです。(これは人ごとでなく自分で経験していることです)
だから…これでいくと”善悪が無い”のが善いことで、善悪二元論は悪いことになりそうです。
しかし、思いの根っこには善悪の捉われはそのままになっていたりするのです。
こんなところから光一元であるはずの教えの信奉者の中から闇の勢力、フリーメーソン、イリュミナティなどの陰謀論が生み出されていくようです。
それは又、前世、高次元の世界、来ない先の世界についての信仰と結びついているものです。
そして、善なる神への信仰といい、闇、サタン(こっちの方が強固だったりします)への信仰といい、頑なものになりやすいです。
こういう思念というものは総じて自己自身には向けられることがありません。
外向きには自分を善なるもの、正しいものに見せていながらも、内心では悪なるものと感じているからでしょうか…
いつも言うように、これでは自己信頼というものが生まれないのです。
信者たちも一応は教師が語っている様に悟り、本心を開くことを思ったりもするでしょうし、日頃のルーティンを繰り返していたら何時かはそうなる、と信じているのでしょう。
だったら…自己に意識が向かず、かえってそこから遊離させてしまう(本当の現実遊離)ような思念は手放さなきゃ…精神的目覚めとは自己の実存に光が照らされ、浸透することに他ならないのですから…あなたの先生はきっと泣いてますよ…
悪いですねえ…それは悪いことです!
善と悪には倫理とかモラルというものが付き物ですが、私はこれが人間の心理を混み入ったものにしてしまう”悪の元凶”?だと思っています。
”オカルトにハマって何が悪い?”悪くないです。”正しいと信じている教えを信じて何が悪い?”悪くないです。それ自体は。
誤解しないで欲しいことは、もし精神的目覚めとかを問題にし、目差そうとするのなら、それらは脇に置く必要があると言っているまでで、それを”捨てちゃえ”と言っている訳ではありません。何故手放さなければならない(捨てることじゃない)かと言ったら、上述した理由で本心を開く上では不都合だからです。
高血圧の人が塩気のある物ばかり食べるのは悪いことです。体に悪い…高血圧には不都合なことなのです。
何で悪いことなのか、ロクに考えることなく、信仰に依存してしまうのは悪いこと? 主体的に生きるには不都合なことです。
主体とは、自分自身というより、自分の主となるものだと思います。
このように悪いこととされているものには、何らかの不都合な理由な存しているものなのです。
我々の精神は何と、物心ついた頃から上からの”見える”力(エラそうな人)から理不尽で、暴力的な善悪の観念を背負いこまされ、傷つけられてきたことでしょう。
それは思われたように善でも悪でもないものなのです。
この固着した思いは、上よりの見えない力によって、解放されます。
分かり切ったことは、こんな善いことを拒むことが悪いことなのです…。






















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