「その時私は、これで目覚めた、安心だという、その自分は、すでに顕わになったダンマから外に出ているのであり、言い換えれば、その自分は顕わになっていないのである。あと戻りしたと思うのは当然であろう」
(玉城康四郎「ダンマの顕現」/大蔵出版刊)
私のように、精神的目覚めの体験に与りながら、数日経って元の木阿弥になってしまうという経験をしている人は結構多いんじゃないかと思われます。
私などは、何とか追体験してみたいという思いを捨てきれないでいる反面、ああいうものは、ある瞬間人生のエアーポケットみたいな世界に入り込んでしまうようなもので、人生でそう何べんも起きないものなんだ、と諦めていた部分もあったのでした。
そこに突然、その体験について否応なしに意識が向けられることになったのは、平成八年の春頃のことでした。
書店で、玉城康四郎先生が学生時代に、その"木っ端微塵"の爆発体験について書いておられる記事が目にとまったのです。(先生は、上掲の著書を始め、至るところでこのことに触れておりますが、私が読んだのは雑誌「季刊仏教」の洗脳と回心特集号でした)
"これは全く私のケースとそっくりではないかi 茫然自失、噴出する歓喜...どうやって家に帰ったかも分からないということや、何と言っても、数日後元の木阿弥になってしまったことまでもが..."
これが奇縁となって、次々と先生の著書を求め、読みすすむことで明らかになったことは、先生はその後何度も、その初発の著しいものとは行かないまでも、形なき命ーダンマが全人格体に顕わになる(先生によれば、これが悟り、目覚めの原態とされる)事態に与り、その消息を深められているという事実です。
そして、平成10年の夏、秋めいた涼風が身体中に染み渡るようにも心地よく感じられる、ある日の夕暮れのことでした。
玉城先生の上掲の言葉に触れ、噴出してくるものとは全く違う、頭に固着していたものが溶けて、ストンと落ちたようになりました。
"私が目覚めるのでも、悟るのでもないのだi、もう、諦めた、これは私の沙汰ではないのだi"
そうして、主我的な思いが抜け落ちたように感じられたのです。
"いや私はそういう心境になったという思いも要らない...主我的な思いに囚われることもあるだろう、生来の自我性の強さは、一生消えることはないだろう...けれど、そういう思いを超えたものに意識が向けられる、向いてしまうではないかi...それで自ずと諸々の思いから離れられるではないかi...もはや、私をどうこうすることじゃない、意識が向けられる方にうち任すしかない..."
そうして、以来恒常的に形なき命、神的なものが顕わになるのを覚えるようになったのです。自分がどうこうすることを諦めたことで...
体験したこと自体、その主体たる私に意識が向けられることで、それは元の木阿弥になるのは、けだし自明なことではないでしょうか?
それなくしては、与ることの出来ない、その源泉の方に向けられないのだから...
改めて、このことに意識が向けられ、気付きを与えられたのには玉城先生との出会いが大きかったと感じずにおれません。
(玉城康四郎「ダンマの顕現」/大蔵出版刊)
私のように、精神的目覚めの体験に与りながら、数日経って元の木阿弥になってしまうという経験をしている人は結構多いんじゃないかと思われます。
私などは、何とか追体験してみたいという思いを捨てきれないでいる反面、ああいうものは、ある瞬間人生のエアーポケットみたいな世界に入り込んでしまうようなもので、人生でそう何べんも起きないものなんだ、と諦めていた部分もあったのでした。
そこに突然、その体験について否応なしに意識が向けられることになったのは、平成八年の春頃のことでした。
書店で、玉城康四郎先生が学生時代に、その"木っ端微塵"の爆発体験について書いておられる記事が目にとまったのです。(先生は、上掲の著書を始め、至るところでこのことに触れておりますが、私が読んだのは雑誌「季刊仏教」の洗脳と回心特集号でした)
"これは全く私のケースとそっくりではないかi 茫然自失、噴出する歓喜...どうやって家に帰ったかも分からないということや、何と言っても、数日後元の木阿弥になってしまったことまでもが..."
これが奇縁となって、次々と先生の著書を求め、読みすすむことで明らかになったことは、先生はその後何度も、その初発の著しいものとは行かないまでも、形なき命ーダンマが全人格体に顕わになる(先生によれば、これが悟り、目覚めの原態とされる)事態に与り、その消息を深められているという事実です。
そして、平成10年の夏、秋めいた涼風が身体中に染み渡るようにも心地よく感じられる、ある日の夕暮れのことでした。
玉城先生の上掲の言葉に触れ、噴出してくるものとは全く違う、頭に固着していたものが溶けて、ストンと落ちたようになりました。
"私が目覚めるのでも、悟るのでもないのだi、もう、諦めた、これは私の沙汰ではないのだi"
そうして、主我的な思いが抜け落ちたように感じられたのです。
"いや私はそういう心境になったという思いも要らない...主我的な思いに囚われることもあるだろう、生来の自我性の強さは、一生消えることはないだろう...けれど、そういう思いを超えたものに意識が向けられる、向いてしまうではないかi...それで自ずと諸々の思いから離れられるではないかi...もはや、私をどうこうすることじゃない、意識が向けられる方にうち任すしかない..."
そうして、以来恒常的に形なき命、神的なものが顕わになるのを覚えるようになったのです。自分がどうこうすることを諦めたことで...
体験したこと自体、その主体たる私に意識が向けられることで、それは元の木阿弥になるのは、けだし自明なことではないでしょうか?
それなくしては、与ることの出来ない、その源泉の方に向けられないのだから...
改めて、このことに意識が向けられ、気付きを与えられたのには玉城先生との出会いが大きかったと感じずにおれません。
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