ブッダのニルヴァーナ(涅槃、悟り)についての教えでよく知られているものは、それは“欲望や渇望、執着といった思いが無い“、ということでしょう。
そして、何と多くの求道者たちは、欲望、執着を無くさなければならない!、という思いに駆り立てられたことでしょうか?!...まるで、執着を無くすことに執着しているようだ...
ブッダは本当にそういうことを言ったかもしれません。
しかし、このことに限らず、誰が何を言ったか、経典に何が書かれているか、ということから離れて、自分の身になってみなければ、何にもならないでしょう?
私には、こういう自分からそのように無くさなければ、捨てなければならないという在り方には、何にもリアリティを感じません。(囚われるな、というのは又別ですが...)
もっと具体的に言えば、そういうことに意識が動かない、ということなのです。“無くさないと!“という思いとは別に...
現実にそうならないということは、どうしようもないことなんですよ!
いや、もしかしたらブッダは、現実にそうすることなんかじゃなくて、ただニルヴァーナというのは、欲望、執着の無い状態のことを言っただけだったかもしれないのです。(言い回しにご注意を!)!)
そう、これがニルヴァーナの現実なのではないか!
私の意識は、自ずからそっちに向けられます。ということはそっちにリアリティを感じてきます!
そして、無くさなければならない、すべてのこうしなければならない、というたぎるような思いから解放されるのを覚えます。
ついでに肝心なことにも触れましょう。ニルヴァーナが渇望、執着の無い状態だとすると、又多くの求道者たちがそれに駆られたであろう、ニルヴァーナを追い求める思いからも解放されるようなのです。
むせ返るような暑気に涼風が吹き込むような爽快さを覚えます。
“自ずと思いから離れるような状態というものがある!“
それは、元よりこの思おう、為そうとする自分には求めることは出来ません!
そういう状態へと向かわせるものがある!...それは全く自分の思いを超えたものでしょう!
自然と意識が動くことには、それにゆだねるしかありません。
それは自分であって、自分でないあるもの...
ブッダは自分自身を拠り所としなさい、と言いました。しかし又同時に形なき命(ダンマ)を拠り所としなさい。とも言ったのです。
命は私だけのものじゃないけど、命あっての私...ブッダは私!
すべての経典も私が語っているのではないか?
どう感じるかはあなた次第です!...
そして、何と多くの求道者たちは、欲望、執着を無くさなければならない!、という思いに駆り立てられたことでしょうか?!...まるで、執着を無くすことに執着しているようだ...
ブッダは本当にそういうことを言ったかもしれません。
しかし、このことに限らず、誰が何を言ったか、経典に何が書かれているか、ということから離れて、自分の身になってみなければ、何にもならないでしょう?
私には、こういう自分からそのように無くさなければ、捨てなければならないという在り方には、何にもリアリティを感じません。(囚われるな、というのは又別ですが...)
もっと具体的に言えば、そういうことに意識が動かない、ということなのです。“無くさないと!“という思いとは別に...
現実にそうならないということは、どうしようもないことなんですよ!
いや、もしかしたらブッダは、現実にそうすることなんかじゃなくて、ただニルヴァーナというのは、欲望、執着の無い状態のことを言っただけだったかもしれないのです。(言い回しにご注意を!)!)
そう、これがニルヴァーナの現実なのではないか!
私の意識は、自ずからそっちに向けられます。ということはそっちにリアリティを感じてきます!
そして、無くさなければならない、すべてのこうしなければならない、というたぎるような思いから解放されるのを覚えます。
ついでに肝心なことにも触れましょう。ニルヴァーナが渇望、執着の無い状態だとすると、又多くの求道者たちがそれに駆られたであろう、ニルヴァーナを追い求める思いからも解放されるようなのです。
むせ返るような暑気に涼風が吹き込むような爽快さを覚えます。
“自ずと思いから離れるような状態というものがある!“
それは、元よりこの思おう、為そうとする自分には求めることは出来ません!
そういう状態へと向かわせるものがある!...それは全く自分の思いを超えたものでしょう!
自然と意識が動くことには、それにゆだねるしかありません。
それは自分であって、自分でないあるもの...
ブッダは自分自身を拠り所としなさい、と言いました。しかし又同時に形なき命(ダンマ)を拠り所としなさい。とも言ったのです。
命は私だけのものじゃないけど、命あっての私...ブッダは私!
すべての経典も私が語っているのではないか?
どう感じるかはあなた次第です!...
いつでもなんなりとコメント下さい。
こういう話ができてとても嬉しいです。またご迷惑でなければ、コメントさせてください😊
そうです。安心感があるから任せられるのです。
昔読んだ本に自分の中に深い井戸があり、どこまで深いかどこにつながっているかもわからず、上を見上げればはるかに青い空が見える。自分が意識できるのはそれだけ。
降りてみようか、上ってみようか?でもこわくて動けない。でもこのごろ上って行けるような気がしています。そこあるのは安心感。
“すべての思いを消滅させる“...やっぱり出来ないですね、やろうとするのは非現実的だと思います。
“そうさせるものがある“、ということをいつも書いているのです。そういう境地を目指したことも、到達したということも無いのですが...
いつも感じているのは、“コレコレ、こういうものが自分“と思っている自分がすべてでない自分が生きているということです。
そうなると、自分をどうこうしようとしなくても、そういう思いから離れた状態が感じられる、ということを書いてみたのです。
自分であって自分でないものは、考えても分かりません。単純に感じてみる(意識してみると言ったりしますが、人によっては難しいかもしれません)。
それは、やっぱり思いを超えていることなのでしょう。
いつも深いお話や、そうそう、うまく表現してらっしゃるなぁと感心することが多々あって、一度コメントしてみたくなりました。
とても人生の裏側さんの境地には追いつかないですが、
いつも、仏教の欲望にとらわれないようにする、瞑想のときに浮かんできた思いを生成消滅する、ということに疑問がありました。えらい簡単に言ってくれるわあ、と。
でもまるで西洋医術でいう対症療法みたいだな、と思います。
思いをすべて消滅できるなら、とらわれなくするには、っといつも考えるけど、ちょっと違うんではないかと。囚われなくするんではなくて、囚われなくなる、が正解だと思います。それにはどうするか、自分というものの定義がかわればいいんだな、今の一瞬の自分ではなく、時を超えて、生まれてから死ぬまでのすべての自分、また、過去世の自分まで含めた自分の視点だったら、どう感じるだろう、と。そうすれば囚われなくなる、とこのごろ考えますね。どう思われますか?