「神は存在する。しかしそれは神は実体という意味の存在ではない。私は存在しているという言葉において、主要な力点は私に置かれていて、“存在している”には置かれていない」
(ベルジャーエフ「奴隷と自由」/新教出版社刊.絶版)
宗教、哲学、スピリチュアル...精神的な道において“実在論”の誘惑というものは、実に強固なものがあります。哲学では、そうしたものを素朴実在論と言ったりしますが、それが実証科学の道でなく、精神の道であるにも拘わらず...
かく言う、私自身も長年その誘惑から抜け出せ無かったことがあります。
“私の信じる神は実在している。霊的存在は目に見えないが実在している。人間存在の構造は、肉体ばかりでなく、その奥に幽体があり、さらに奥に霊体がある“...
しかしながら、私はただの一度もそれらが実体あるものとして確証を得たことがありません。勿論、それらは簡単に見ることは出来ないのだから当然でしょうが...そうした感覚も持ったこともありません。
世の中には、例えばフランスの片田舎に聖母マリアが出現して、何かのお告げをしたとか、霊的なある実体に接したという人も沢山居るでしょう。
私はそういう現象そのものを否定するつもりはありません。
ただ、問題にしたいのは、そのことを通して、私の内奥に直接触れるものがあるのかどうか、実存的意味があるかどうか、ということなのです。
もし、それが私に直に響いてこないのならば、神も霊なるもの(これは幽霊の類のことではありません!)も物質的現象と何ら変わらない、ということになるのではありませんか?
神、霊なるものとはそういうものだ、と言っているのです。
つまり、それは私の実存と切り離せないものなのです。
真実に神を知るということは、私の生に根底からの目覚め、変容をもたらさずにはおかないでしょう。(勿論、それに先のような現象が伴うことはあり得ることです)
それには何らの証明もないが、確信はあります。
そこに、“神はアリアリと実在している!”という言明もなされるかもしれません。
そこには又、“私は在る!”という、強烈な実存感覚が重ねられずにおかないでしょう。
この実存、実在感覚というものは、おそらく何人にも、内奥のどこかに覚えられていて、表層の思念の中で歪められ、素朴実在論と結び付いてしまうのでしょう。
それに加えて影響をもたらすのは、“私が信じる宗教、エラい人はそう言っている“、という外的権威に依存、隷属してしまう思念でしょう。
いずれにしても、それらは実存的主体から分離した意識の有り様と言う他ありません。
かくして、精神的道、霊性の道を益々見えなくさせてしまうばかりです。
元々見えない?...
心の目でみられよ!...
(ベルジャーエフ「奴隷と自由」/新教出版社刊.絶版)
宗教、哲学、スピリチュアル...精神的な道において“実在論”の誘惑というものは、実に強固なものがあります。哲学では、そうしたものを素朴実在論と言ったりしますが、それが実証科学の道でなく、精神の道であるにも拘わらず...
かく言う、私自身も長年その誘惑から抜け出せ無かったことがあります。
“私の信じる神は実在している。霊的存在は目に見えないが実在している。人間存在の構造は、肉体ばかりでなく、その奥に幽体があり、さらに奥に霊体がある“...
しかしながら、私はただの一度もそれらが実体あるものとして確証を得たことがありません。勿論、それらは簡単に見ることは出来ないのだから当然でしょうが...そうした感覚も持ったこともありません。
世の中には、例えばフランスの片田舎に聖母マリアが出現して、何かのお告げをしたとか、霊的なある実体に接したという人も沢山居るでしょう。
私はそういう現象そのものを否定するつもりはありません。
ただ、問題にしたいのは、そのことを通して、私の内奥に直接触れるものがあるのかどうか、実存的意味があるかどうか、ということなのです。
もし、それが私に直に響いてこないのならば、神も霊なるもの(これは幽霊の類のことではありません!)も物質的現象と何ら変わらない、ということになるのではありませんか?
神、霊なるものとはそういうものだ、と言っているのです。
つまり、それは私の実存と切り離せないものなのです。
真実に神を知るということは、私の生に根底からの目覚め、変容をもたらさずにはおかないでしょう。(勿論、それに先のような現象が伴うことはあり得ることです)
それには何らの証明もないが、確信はあります。
そこに、“神はアリアリと実在している!”という言明もなされるかもしれません。
そこには又、“私は在る!”という、強烈な実存感覚が重ねられずにおかないでしょう。
この実存、実在感覚というものは、おそらく何人にも、内奥のどこかに覚えられていて、表層の思念の中で歪められ、素朴実在論と結び付いてしまうのでしょう。
それに加えて影響をもたらすのは、“私が信じる宗教、エラい人はそう言っている“、という外的権威に依存、隷属してしまう思念でしょう。
いずれにしても、それらは実存的主体から分離した意識の有り様と言う他ありません。
かくして、精神的道、霊性の道を益々見えなくさせてしまうばかりです。
元々見えない?...
心の目でみられよ!...
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