人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

すべては祈りから

2024-04-07 09:24:19 | 祈りと瞑想
どうしたら神、霊性とつながるか、あるいは幸福、安らぎに与ることが出来るか?
千古の昔から宗教では、祈ることを説いて来たのです。(禅などの瞑想の道もあるではないか、とする向きもあるでしょうが、いつも言うように私には分けることが出来ません)
私は何も特別なことを示そうとは思っていません。神に祈ればいいのです。
そうするとどう祈ればいいのか、とか何の神に祈ればいいのか、と問われないとならないのですか?、そういう分別心が起こる...だから祈ればいいのです。
うちの宗派ではこう祈る、何々の神に...って、何の宗派だかの問題じゃありません。あなた自身の問題でしょう?
祈ることで分別心が起こる、ということほどナンセンスなことはありません。
この祈り、瞑想でなければ!と、他に向ける...それが余計なことだと言うのです!
あなたが心底そう思うのなら、そうしたらいいだけのことです。
そう思うということは、既にある手応えを感じているということなのでしょう?
でなければ、ただそう言っているだけ!...言挙げするんなら、祈ればいい!
心の底から祈ることにより、神は段々、その礼拝の対象では無くなり、自分と一つのもののように感じられて来ます。
これまで、宗教ではあまりに神と自己は、別々のものとして捉えられて来たのでした。
昔からの祈ることの上に、特に私が強調したいことは、自分自身の問題として祈る、ということです。
神とか、自分以外の何かを想像してしまうようで、抵抗を感じるのでしたら、自分自身、自己そのものに向き合ったらいいでしょう。これは瞑想的なことかもしれません。
私には長年それは困難な道なのでしたが、今はもう、あっという間に!...
神に祈るようなことでそうなる...だから祈りと瞑想は分けることが出来ないのです。
そう、神と自己は分けることが出来ない!
心の底から祈ることで、分別は起こらない!、分別が起こったなら祈ればいいのです!
そうでなければ、いつまで経っても、果てしなく、“ああでもない、こうでもない“、とどこにも落ち着くことなく、思考が巡らされるだけです。
神、要するに思いを超えたものにつながるには、当たり前のことながら思いを超えなければなりません。
出来ない?...だから祈ればいいのです。考えている私が出来ないのは当たり前のことです。
しかし、祈ることで神の方が臨んで来るのです。神の方が一つになろうとしているようにも...これなんだ!
自分の思い、力を超えた世界のことは、その超えたものにゆだねるしかありません。
すべては、その気があるかどうかというだけのことでしょう!
だから、すべては祈りから始まるのです!

いつも書いていることですが、改めて書いてみて、新たに始まるように感じてなりません!






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