人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と空

2022-08-06 09:56:49 | 覚醒
精神的な道において、特に修行を伴うものでは、決まってと言っていいほど“空“とか“無“の状態になることに目標が置かれたりします。
それは、多く悟りと結びつけられる訳ですが、端的に“思いを超える“ことを言い表していると言っていいでしょう。
そうした状態に与った人たちは、禅の見性体験など、一様に“心がからっぽになる“ことは、例えようもなく素晴らしいことなんだ、と語ったりするので、否応なしにその境地に惹きつけられてしまうようです。
しかし私はここで、空とか無になることそれ自体のことを取り上げることはほとんどありません。
だって、ただ思いが超えられた、何にも思わなくなった、からっぽになっただけのことってそんなに幸せなことなんですか?...ご冗談でしょ!
私もそういう風な状態に何度かなったことありますよ。自分がそれを求めた訳じゃありません。誰が求めるか、そんなもん!
ただ何も思えない!...そう、悟り系スピではお馴染みの...私は居ない!、全体しかない!、いや違う!、全体もない!...全体と一つになんかなれっこありません!...何が私で、何が全体なのか分かりゃしないのです!
そこには、似たような状態とも言える、あの魔的なものに包まれ、暗闇に吸い込まれるような恐怖も感じないし、あらゆる苦しみも無い...そして愛、幸福も感じられないのです!
生きる意欲も無い...生きているのか、死んでいるのか?...な~んにも無い!
探求は終わった?...そりゃ探求というか、惹きつけられるものが無いんだから...
そうです。そこには神的な現臨が感じられないのです!
例えようの無い幸福感、愛...それはこのものあってのものなのです!
意識が向けられる、惹きつけられるものがある...生の律動感、大生命との一体感...
禅僧でも、ヨガ行者でも、このものにあって、心がからっぽになったことの消息を伝えているに違いないでしょう。”禅病“のようなことである訳ないでしょう!
ブッダの涅槃の境地というものが、あるいはこうした“空”の状態を想起させるかも分かりません。
しかし、ブッダは涅槃に入れば、そこには”安らぎ”があると述べられているのです。
それは、我々の思いを超えたもの(ブッダにおいては”ダンマ~法“)から来る...
私がいつもここで言っていることは、それを神と言おうと何と言おうと、思いを超えたものにあって、初めて思いが超えられる、ということに他なりません。
それは、古来から精神的な道で言い伝えられていることに違いないのです。
あったりまえでしょ!...それは生きている人間のために伝えられているのだから...
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8 コメント

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お詫びと訂正 (のしてんてん)
2022-08-06 10:39:52
先日ブログ「のしてんてんハッピーアート」で誤って連載記事をUPしてしまいました。予約日を誤ったためです。
予約日を修正したため、現在当該記事は公開になっていませんが、上記事情ですのでよろしくお願いいたします。
ご迷惑をおかけしました。そしてありがとうございました。
北籔 和(Waa)
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Unknown (シタテルヒコ)
2022-08-06 12:23:51
のしてんてんさん、ご丁寧に有難うございます。
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気付き (のしてんてん)
2022-08-06 19:32:14
つい最近納得した考えがあります。かなり反芻して出来たらお考えを伺いたいと思うようになりました。
論理的に世界は物質と空間で出来ていると考えられます。(私の宇宙モデル)
すると考えられる私という主体は①物質、②空間、③物質と空間というように三つになります。
そう考えると、現在の我々人間は①を主体として世界認識している。いわゆる四次元感覚です。苦悩はそこから生まれてくるように思います。
禅は②による意識を求めるものです。すなわち空を自分の主体と認識できる自分になる訓練ですが、その認識世界は時間を今この時をただ一点に定めスケールの世界に意識を拡げて行くことです。それを五次元による世界観だと考えます。
今回の記事で私の心にとまったのは、空に対するシタテルヒコさんの禅に対するお考えです。
その通りだと思いました(私の理解できる範囲で)
認識方法を変えることで人間は成長する。そう考えると、①から②に意識を変えることは確かに悟りと言えますが、人間はそこで止まってはいけないということなのでしょうね。
つまり人間は③にまで意識を昇華させなければならない。その世界観がここにあるような気がします。
その上で私が思う現臨とは「気付き」という存在だと思うようになりました。

最近、もしかしたら苦が消えたのでは??と思える現象の中にいまして、目下どこから苦が生まれて来るか観察中で^す^
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Unknown (シタテルヒコ)
2022-08-06 21:21:21
のしてんてんさん、実は禅にしろ、ヨガ瞑想にしろ、所謂自力修行と目されている道というのは、私にはあまり縁が無く、素人考えにすぎないのです。
あくまで、それに沿っての見方になりますが、例えば禅では、ブッダの初めからどこかで自力を超えたものにつながる道も伝えられているように感じています。
自力だけでは、あなたの言われる空間へと開かれることは不可能な気がします。
又、言われるように空間(観)だけでは、現実世界では生きることは出来ず、現実、空間の調和した道も開かれて来るように感じています。
このことにも追々触れてみたいと思っています。
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自力と他力 (のしてんてん)
2022-08-07 22:21:13
私も実は禅やその他のことをほとんど知りません。
知ろうとしたら、一生かかっても知ることは出来ないとも思っています。それは多分、お釈迦様でさえ。
いえ、お釈迦様でさえ素人ではなかったでしょうか。
自力と他力というのは単に認識の問題であって、実は同じことなのだと私は思っているのですが、この考えは突飛過ぎるでしょうか。
五次元のイメージから言えば空間へと開かれるのは自力でも他力でもないのだと思えます。
ただ事実に気付くということだけ。ゆえに私はここで語られる現臨こそが気付きなのだと思うのです。
きっと私達は同じことを言っているような気がしてなりません。
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Unknown (シタテルヒコ)
2022-08-08 04:24:03
ブログにも書いたことがありますが、自力とは、“おのづから“なる力という意味合いがあると思います。
みずからのみの力というのは、あり得ないでしょう。
そう捉えると、分けることは出来なくなりますね。
現臨というのは、確かに気付きをもたらすものです。
これも自動的、他動的と分けられないものです。
現臨は、超越的であって、内在的なものと感じています。
そうですね、私たちは同じことを言っているようですね。
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認識と気付き (のしてんてん)
2022-08-08 14:47:02
矛盾を恐れず私は認識の問題に立ち入りました。それは随分昔の話です。
目覚めて眠るまで、意識の中に様々なことが生まれてきます。これを一言で括ってしまうと、認識ということが出来ると思います。(認識とはものごとを良い悪いを判断する感情と共に知ることと考えています)
真実があるとすれば、私達はその真実に触れることなく真実らしきものを理解するこれが認識だと思っていました。

ところが私は大きなものを見落としているのに気付いたのです。
私のこの認識とは、実は頭脳によって認識している自分と、その自分に気付いている者がいる。それらは巧妙に融合してそれが認識だと思い込まされているのだと知りました。

認識する自分だけでは成り立たない。その認識に気付いている者がいて初めて私の認識は成り立っているのだと。もし気付きがなければ、私は自分の認識を知ることさえできないのだと。

私は、私と私を見ている者(気付き)から成り立っている。意識とは意識本体(空体=自己意識)と気付き(宇宙意識)なのだと思いました。


この自分を見つめている者を主体にして生きることが出来ないのか。これが私のアプローチです。
正しいかどうか分かりませんが、少なくとも絵を描く中ではうまく機能するようです。
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Unknown (シタテルヒコ)
2022-08-08 16:46:51
<その認識に気付いている者がいて、初めて私の認識は成り立つ...
これは、私がほぼ自己認識、自己観察などについて触れていることと同じです。
私はその自己を超えて見ている、というか光を照らしている感じのものを“照明“と呼んでいるのですが、現臨の一つの側面でもあります。
今回の記事にも関連しますが、ギリシア、ローマ時代には理性というものをその“認識する光“として捉えられてもいたようです。
そのアプローチの仕方は、あって無いようなことですが、意識的になることと切り離せないと感じています。
特別なことは何もなく、こうして書いているだけでいいのですが...とにかくこのことに触れるともう尽きなくなりそうです。
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