人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

汝の主を愛せよ!

2015-09-22 10:43:45 | 
私はオフクロの薫陶もあってか、物心ついた時から信仰的な人間だったと思います。
過剰なほどの自意識が芽生え始めた頃から、離れしていた時期がしばらく続いたものの、オフクロは私が一生神から離れられない人間であるのを見抜いていたと思います。
精神的な道を求め、歩む上において重要なことで、昔から当たり前のように言われてきた、こうした言葉ほどシンプル、的確なものは無いと思います。
それは”汝の主を愛せよ!”というものです。こう言ったからといって、勿論何も皆ユダヤ、キリスト教になる必要はありません。
どういう神でも、仏でもサムシング・グレートでもいいでしょう。あなたが考える最善なる何かです。
それはあなたを超えたものであり、あなたの命の親であり、あなた自身の源…真の主体…すなわち汝の主なるものです。
”そういう事だったら、どこの宗教でも言ってるし、祈ったりしてやってることでショ?”という人が居たら、それは全くの見当はずれです!
ほとんどの宗教というのは不信仰者の集まりなのです。
彼らが信じているのは汝の主なんかではありません。
誰かエライ人が言った言葉を、神の言葉のつもりで信じ込んでいるのです。
そしてまたエライ人が勝手に決めたことを、正しいものと信じてやり続けているのです。
それは形を変えた、信仰についてはあまり語らないスピ系のグループでも同じことです。
汝の主が顕れ出ようとしているのに、その前にしゃしゃり出ようとする、神に代わって物申すという、思い上がったただの人間は偶像に過ぎないのです。
これは現在、何らかの宗教、グループに関わっていようといまいと、こうしたものを突き抜ける心の姿勢が大切ですね。
実際のところ、周りが不信仰、偶像崇拝ばかりだと、かなり忍耐も必要かもわかりません。

人間は”オギャー”とこの世に生れ落ち、泣きながら何かに取りすがろうとしますね。
何かと切り離されては生きていけないかのように…そしてそれを見出した時、安心してスヤスヤ眠ります。
肉の親を見出した時、そこに別の命の親の代替えを見出すのでしょう。
そしてそれから物心がつき、二元に生きる私たちが大好きなそれぞれのストーリーが始まる訳ですね。
やがてそこから問題、苦悩を背負ってしまうようになり、何かを思い出したかのように道を求め、信仰に目覚めます。
でも、如何せんこの二元世界にトップリ浸かった我々は、切り離された断片、部分品、不完全なものでしかありません。
この限定された所与のものから、問題を解決しようとしたり、安心を得ようとしたり、中には悟りを得ようとさえ思う者も出て来ます。
しかし、その根本的な土台からしてアヤフヤでズレているのです。半端なものには、足らないものを満たすものが必要なのです。
でも、我々自らが”半端ものだったんだ…”という自覚、認識が無ければ、ずっとこの事に気づけません。
悟りというものを、この自覚無しにそれ自体が一人歩きした時、おそらくそれは魔境的なものとならざるを得ないでしょう。
何故ならば、それは神と共にあるという事だから…逆に言えば、神と共にあれば、それを求める必要も無いのです。
だから…汝の主を愛することが始まりなのではないでしょうか?
本当はそれに先立って汝の主が我を愛し続けているのです。と言うより、”主は愛なり”なのですが…
神、信仰…などと言うと、拒絶反応を示す人の気持ちもよく分かります。
それくらい、宗教というものは不信仰、偶像崇拝というものを撒き散らし続けてきた歴史があるのですから…
でも、今苦難を抱えておられる人がおられたら、ただこのどうしようもない二元世界の現実を認め、プライドなんか捨てて赤ちゃんのようにあなたが考える最善の何ものかに取りすがったらいいと思います。
私はその瞬間風穴から味わったことの無いような空気が心身に浸透し出したのを知っています。
そして主を見出した時など、泣きじゃくって、みっともない、赤ちゃんになってしまうのです。
ハア…”人新たに生まれずば、神の国を見るあたわず”ですか…私はクリスチャンじゃないですよ…。




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