人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生と実存

2020-07-10 12:09:28 | 哲学・思想
私はどうしてここに居るのだろうか?
本当に生きるとは、どういうことだろうか?

随分とありきたりで、哲学的な問題ですが、(天才かヘン人か知らないが)私は小学校に上がる前から(!)こういう問題を抱えていたのです。
勿論、哲学の何たるかなど知りませんし、そういう命題をいつもあれこれ知的に考えていた訳でもありません。
これを何と言っていいのか...ええっとね、私は実存的問題に直面していたのですi 分からない? そうでしょう? 謎めいた私の半生には不可解なことが多いのです。
とにかく、昔から他の人がフツーに生きているのが不思議でしょうがなかったのです。
この世界には何か私の"まっ中心"と隔てている、見えないバリアのようなもので覆われているのではないか? どうしてみんな疑問に思ったり、感じないのだろうか、と。
本当に生きるとはどういうことかがシックリ感じないのです。
そうです。"実存的問題に直面していた"とは、そう"感じていた"、というのが正しいのです。そんなことは考えたって幼い頭で分かる訳がありません。
親父にそういうことを聞いたら、"こうこうって理由でお前は居るし、生きてんだ"と、それ相応のことをもっともらしく、笑いながら答えてましたが、それで納得など出来ません(その傍らで母は驚嘆した表情で、"このコはフツーじゃない、天才よi"、と言っていました)。
頭の中で分かったつもりになる人は、例えば誰かが説いている、哲学的真理、宗教的真理などを信じ、それに迎合して決着を着けるのかもしれません。
しかし、ここで言う実存的というのは、そんな観念ごとによっては決して解決出来るどころか、到達すら出来ないことなのです。
意味概念が分かったところでどうにもならない...単なる知的な問題でなくて、生きることそのものに関わる問題だったのです。
当時では、知る由もないことでしたが、今ならこう言えるでしょう。
"私、私の回りには何かが決定的に欠けている、それが無ければ本当には生きているとは言えない何かが"...私はある種の喪失感を抱えていたと言うことになるでしょうか?
この辺の消息のことを観念ごとでなく、自分自身の"実存"に照らして理解出来る人は、神的な光に与るということも理解出来る...かもしれません。
私は幼い微睡みの中にも、どこかに喪失されていない、"神的な、創造的光に満ちあふれた生"の原像を知っていた、と言えるのではないでしょうか? (そうでなければ、人は適応、意識障害とか何とかレッテルを張るかするでしょう。要するに天才か、ただのヘンな人...)
このことはずっと後年、実存的光を伝える哲学者ベルジャーエフとの出会いによって明るみにされ、そこから創造的生にぶち当たるような道が開かれることになったのでした...。
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