こないだも同じようなこと書いてましたが...
"意識が向いたら、パッと愛、平安、リアリティが臨む..."
私は到底、こんなこと言える人間ではなかったのです。
愛、平安...にある、というのは、もう、とにかく"ああ、そのものにあって生きている、生かされていることが実感されるi"、というようなことです。
自分は何でここに居るのか、とか生きる意味は何ぞや?と、問うまでもなく、理屈抜きにそうなっていることです。
私はね、幼い頃からの生についての苦難を通して、こういう真理に到達したのです...って、そんなこたあないi
これは、まさにそういう真理そのものが臨んだ、ということを伝えているのですi
私が真理を分かっている、掴んだとか言えることじゃないi...分かった、掴んだと思った瞬間、それはスルリと手から抜け落ちてしまうものでしょう。
「真理は物的世界における客観的実在ではない。真理は実存的である」「真理の中にこそ生がある。真理は一閃の光で世界を照らし、生を変貌させる」(ベルジャーエフ「真理とは何か」理想社刊)
私は幾度か、ベルジャーエフとの出会いにより、それまで暗闇に包まれていた私の実存が切り開かれた、ということを書いていますが、それはまさにこうした言葉が物語っている通りのものです。
この場合、真理という、日本語の"理"というのが躓きになるでしょう。知的に理を追い求め、掴もうとする...それはどこまでも自分の外に真理を置いていることであり、部分的、抽象的なものとならざるを得ません。
そこに命はない、具体的な生から切り離されるから...具体的な生とは、ありのままの自己を置いてはあり得ない...それが実存という哲学的表現が意味しているものです。コ難しく議論したって、不毛、徒労に終わるだけです。
講壇で論じられるような、所謂実存哲学ほど真の実存から遠いものは無いのではないか?
ドイツの哲学者ヤスパースなどが言った"実存開明"とは、頭で抽象的に分かったつもりになるのでなく、具体的に光に与り、精神の暗部にそれが照らされることに他なりません。
生きた真理というものは、又愛、平安と切り離されたものではありません。これは本当に、ホントーに"すべての生において"、大きい意味を持っていると言っても過言ではありません。
だから、ここで言う真理とは単なる"理"を超えたものとならざるを得ないのです。
そして愛にあってこそ、私が追及するのでなしに、惹き付けられる、ということが起こる...そして又光を受け、神的な生命との交わりの道が開かれるのです。
私は未だに何で私がここに居るのか、何のために生きているのか分かりません。
ただ、かつてのようにそのことが深刻な問題とは感じていません。しかし、それは全く気がおかしくなってしまうほど深刻なことと隣り合わせであることには変わりありません。
私のすぐ隣にあの幼く、"この世界は夢じゃないの?、僕はどこに居るの?、どこに向かえばいいの?"と心の中で叫び続けていた私が居ます。
だから...自ずと意識が最愛のものに向けられるのでしょう...。
"意識が向いたら、パッと愛、平安、リアリティが臨む..."
私は到底、こんなこと言える人間ではなかったのです。
愛、平安...にある、というのは、もう、とにかく"ああ、そのものにあって生きている、生かされていることが実感されるi"、というようなことです。
自分は何でここに居るのか、とか生きる意味は何ぞや?と、問うまでもなく、理屈抜きにそうなっていることです。
私はね、幼い頃からの生についての苦難を通して、こういう真理に到達したのです...って、そんなこたあないi
これは、まさにそういう真理そのものが臨んだ、ということを伝えているのですi
私が真理を分かっている、掴んだとか言えることじゃないi...分かった、掴んだと思った瞬間、それはスルリと手から抜け落ちてしまうものでしょう。
「真理は物的世界における客観的実在ではない。真理は実存的である」「真理の中にこそ生がある。真理は一閃の光で世界を照らし、生を変貌させる」(ベルジャーエフ「真理とは何か」理想社刊)
私は幾度か、ベルジャーエフとの出会いにより、それまで暗闇に包まれていた私の実存が切り開かれた、ということを書いていますが、それはまさにこうした言葉が物語っている通りのものです。
この場合、真理という、日本語の"理"というのが躓きになるでしょう。知的に理を追い求め、掴もうとする...それはどこまでも自分の外に真理を置いていることであり、部分的、抽象的なものとならざるを得ません。
そこに命はない、具体的な生から切り離されるから...具体的な生とは、ありのままの自己を置いてはあり得ない...それが実存という哲学的表現が意味しているものです。コ難しく議論したって、不毛、徒労に終わるだけです。
講壇で論じられるような、所謂実存哲学ほど真の実存から遠いものは無いのではないか?
ドイツの哲学者ヤスパースなどが言った"実存開明"とは、頭で抽象的に分かったつもりになるのでなく、具体的に光に与り、精神の暗部にそれが照らされることに他なりません。
生きた真理というものは、又愛、平安と切り離されたものではありません。これは本当に、ホントーに"すべての生において"、大きい意味を持っていると言っても過言ではありません。
だから、ここで言う真理とは単なる"理"を超えたものとならざるを得ないのです。
そして愛にあってこそ、私が追及するのでなしに、惹き付けられる、ということが起こる...そして又光を受け、神的な生命との交わりの道が開かれるのです。
私は未だに何で私がここに居るのか、何のために生きているのか分かりません。
ただ、かつてのようにそのことが深刻な問題とは感じていません。しかし、それは全く気がおかしくなってしまうほど深刻なことと隣り合わせであることには変わりありません。
私のすぐ隣にあの幼く、"この世界は夢じゃないの?、僕はどこに居るの?、どこに向かえばいいの?"と心の中で叫び続けていた私が居ます。
だから...自ずと意識が最愛のものに向けられるのでしょう...。
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