以前にも取り上げたことがある、ユニークな禅僧、南直哉さんがカソリックの神父、来住英俊さんと対話している、「禅と福音」(春秋社刊)という本を読んでみました。
私は、南さんの自分の内なる問題、実存に即して語る姿勢にとても共感しています。
きっと、この対話もそういう土俵の中で進められるのだろうと期待していたのですが...
まず、私は知らなかったのですが、南さんは過去にキリスト教(プロテスタント)に入る直前まで行った経緯があったことに興味を掻き立てられました。
しかし、その時牧師に「神が信じられないのであれば洗礼したって無意味だ」と言われ、そのことを留まったのだそうです。そこに神と人間の関係にリアルなものを感じなかったと!...
それでも、氏は今でもキリスト教に対し、あこがれを持ち続けているとのことですが...(”そうだったのか?!”...な~んて、一人合点しててもしょうがないですが)そのあこがれが何かについては明らかにされていません。それが氏においても、多くの求道者においても重要なことのように思えるのですが...氏にはどうも神などの超越的なものが、リアルに感じられないらしいことは、那辺に理由があるのかもしれません。
私はその牧師の言葉に対し、こう言いたい!...“神を信じようが信じまいが、自分を超えたものをリアルに感じられない洗礼など無意味だ!“と...
仏教者にもキリスト者にも、自己実存の本音に訴える言葉、そこから滲み出てくるような言葉が求められるのではないでしょうか?!
その南さんの、少なくとも私には本音が伝わる、仏教者としての諸問題についての発言に対し、来住さんのキリスト者からの発言はと言うと...
これが、全くつまらない!...正直、退屈です!
延々と世間一般に認知されている、スタンダードなキリスト教以上のものが伝わってこない、説明的な言葉に終始されても!...
私はそれを読んで、日本の精神文化にキリスト教が根付くことは永遠に無いであろうこと、否キリスト教そのものに未来は無いことを再認識しただけです!
私が聞きたいのは、人格を持たない“キリスト教の本音“(この章題は大ウソ!)でなく、キリスト者の本音なのです!
使徒信条を唱えなければ、三位一体の教えを信じなければキリスト教でなくなる?...なくたってあの息吹に与ることが出来ます!...それを欠いたキリスト教など何になるか?!
キリスト者でも何でもない私がエラそうに言う資格などありませんが、ここは南さんの“あこがれ”をもっと掘り下げ、それに肉迫しなきゃあ!...消化不良感が半端ありません!
後半は、倫理とか社会問題などに触れていますが、何か根本的なことが不明なままなので、あまりついて行けませんでした。
それにしても、南さんのキリスト教へのあこがれって何だ?(ご多忙中で、こんな日の当たらないブログなど読むヒマないかもですが、教えて欲しいです)もしかして、どっかで知らされているのかもしれません。でなきゃあこがれ自体を持ったりしないでしょう?...
私は、南さんの自分の内なる問題、実存に即して語る姿勢にとても共感しています。
きっと、この対話もそういう土俵の中で進められるのだろうと期待していたのですが...
まず、私は知らなかったのですが、南さんは過去にキリスト教(プロテスタント)に入る直前まで行った経緯があったことに興味を掻き立てられました。
しかし、その時牧師に「神が信じられないのであれば洗礼したって無意味だ」と言われ、そのことを留まったのだそうです。そこに神と人間の関係にリアルなものを感じなかったと!...
それでも、氏は今でもキリスト教に対し、あこがれを持ち続けているとのことですが...(”そうだったのか?!”...な~んて、一人合点しててもしょうがないですが)そのあこがれが何かについては明らかにされていません。それが氏においても、多くの求道者においても重要なことのように思えるのですが...氏にはどうも神などの超越的なものが、リアルに感じられないらしいことは、那辺に理由があるのかもしれません。
私はその牧師の言葉に対し、こう言いたい!...“神を信じようが信じまいが、自分を超えたものをリアルに感じられない洗礼など無意味だ!“と...
仏教者にもキリスト者にも、自己実存の本音に訴える言葉、そこから滲み出てくるような言葉が求められるのではないでしょうか?!
その南さんの、少なくとも私には本音が伝わる、仏教者としての諸問題についての発言に対し、来住さんのキリスト者からの発言はと言うと...
これが、全くつまらない!...正直、退屈です!
延々と世間一般に認知されている、スタンダードなキリスト教以上のものが伝わってこない、説明的な言葉に終始されても!...
私はそれを読んで、日本の精神文化にキリスト教が根付くことは永遠に無いであろうこと、否キリスト教そのものに未来は無いことを再認識しただけです!
私が聞きたいのは、人格を持たない“キリスト教の本音“(この章題は大ウソ!)でなく、キリスト者の本音なのです!
使徒信条を唱えなければ、三位一体の教えを信じなければキリスト教でなくなる?...なくたってあの息吹に与ることが出来ます!...それを欠いたキリスト教など何になるか?!
キリスト者でも何でもない私がエラそうに言う資格などありませんが、ここは南さんの“あこがれ”をもっと掘り下げ、それに肉迫しなきゃあ!...消化不良感が半端ありません!
後半は、倫理とか社会問題などに触れていますが、何か根本的なことが不明なままなので、あまりついて行けませんでした。
それにしても、南さんのキリスト教へのあこがれって何だ?(ご多忙中で、こんな日の当たらないブログなど読むヒマないかもですが、教えて欲しいです)もしかして、どっかで知らされているのかもしれません。でなきゃあこがれ自体を持ったりしないでしょう?...
為に犠牲になって磔になられた事を信じますか?」と
迫られました
後続の兄弟宗教のコラーンには磔は幻想で、イエスはトリックを使ったと書いてあるやないか、あんたとこの教義は間違ってんのと違うの?と文句を言ったら「はい結構です、さよなら」と追い返されました
以来キリスト教関係者には私怨がおます
そう言えば私も若い頃、信者にさせてくれと教会に頼んだら、機が熟して時期が来たらと食らわされた
どーゆー仕組みになっとるのやら