人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見神と神の国

2014-11-21 19:16:43 | 人生の裏側の図書室
「唯だ忽然はつと思ふ今までの我が我ならぬ我と相成…(中略)謂わば無限の深き寂しさの底ひより堂々と現前せる霊的活物とはたと行き會ひたる…(中略)驚喜の意識は、到底筆舌の盡くし得るところにあらず候。」綱島梁川(病間禄)
フウー…書くのも苦労、読むのも苦労…読みづらい文章で済みません。
何分、唯でさえ難しい明治時代の旧文体である上、一種独特の詩的表現で綴られている故です。
綱島梁川(つなじまりょうせん)。
(難解である故、無理におすすめはしませんが、古書店で岩波文庫版「綱島梁川文集」が見つかるかも知れません。)
戦後生まれの方には馴染みが無いかも分かりませんが、この人の名はわが人生の裏側的?宗教、哲学の先人として永久に記憶されるべきであります。
彼が明治38年に3回起きた所謂「神を見た」という体験を雑誌に投稿したところ、これが各方面から大反響を呼び、それまで倫理学者、美学者として知られていたのが、たちまち「見神体験をした神秘主義者」として見られるようになりました。
その反響が如何に大きかったか…彼の文章に対する識者の批評文だけで一冊の本になったくらいです。(見神論評)
それを読むと…精神病理学の立場からヒポコンデルの一種と決めつけるもの…彼に対抗してか、別なる見神、見性、見仏?体験を披歴するもの…など実にカラフルなもので、この時代の精神世界の高揚ぶりを伺い知ることが出来ます。
ただ何時の時代にも外側からは伺い知れない本人の内面に触れ得ずして、好き勝手に批評する人は居るものだな、と思いますね。
中には芙蓉道人なる人物による実に真摯な、これらの世論に対する批評も有ります。
彼はそこで「見神」という表現から受ける誤解について、それは実際に神を見えるもののように見たのでは無く、彼の「火を見るより明らかな霊的事実」を記したのだと弁明しています。
そうです!これは紛う事無き覚醒体験に他なりません!
当時はこういう言葉も無ければ、事例も殆ど知られて無かったのです。
「一心不乱に拝んでたら、神様がお出ましになった」と誤解されても仕方無かったのですね。
大僧正とか教祖さんとかでなく、一書生のような人が「吾が見たりし神は、事実の神也、意識直接の自證の神也、当面現前の神也…」(病間録)と
自身の宗教的回心の模様をリアルな美文で書き表したのです。
いやあ、この表現力… エッ、一世紀も前! 参りましたね!
「神の子の自覚」とか「永遠性の問題」など、掘り下げるべきテーマは沢山有りますが、私が一際目が釘づけになったのは次の文章です。
「若し一人真に神子の自覚を有するものあらば、誠に人類の力也。
若し二人以上この自覚を有するものあらば、そこに神国の実現あるべし。」(同書)
彼には神の国の青写真とも言うべき、内なる共同体の直観が有ったのは明らかです。
そして神の国の実現には、最低二人以上の神の子に目覚めたものが要ると言うのです。
これは単なる主観的な事と片づけられてしまう領域から、客観的領域に一歩、歩み出すという事を示しているのでしょう。
どんなに小さなものであろうと、真実に「神とともにある」喜びを共有出来る繋がりにおいて、我々は神の国のおとづれに預かることが出来るでしょう。
若くして病没した宗教的天才綱島梁川…彼の周囲の無理解、孤独感といったものは如何程のものだったろう…
彼は生前「神子の自覚」を持った対手を見出したのだろうか?
しかし、かの国で彼は今、確かな手ごたえを感じ、我々を見守ってくれているのではないでしょうか…。
神の国の地上応現は実に見えるものと見えざるものとの共同によって行われるのです…。





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個と人類

2014-11-19 19:58:59 | スピリチュアル
「どんなに至福に満ちた、調和に満ちた、永遠の世界を垣間見ようと、もしそれが自分の内面だけにしか示されない、一人善がり的なものに過ぎないとしたら…。」
私がその恩恵に預かった直後、そんな思いが脳裏を霞めました。
結局、いくら自分の中で確信的な体験をしようと、「それはあなたの主観でしょう。」という事で片付けられてしまうではないか、という事です。
この思いの底には実はいくつかの側面が交錯していました。
まず、自分の体験はもしかしたら幻覚なのかもわからない…実際熱に浮かされていたし…だから自分の体験に確実性を持たせねばならない、というものです。
それには誰か権威ある人、マスターと言われるような人からお墨付きを貰おうとさえ思いました。
これはお気づきの方もおられるでしょうが、エゴの声に他なりません…。
エゴというのは証明書のようなのが無いと、落ち着かないのです。
毎日エゴに飲まれた生活をしていたからか、私でもそう感じられる自覚はありました。
「そんな事人に話したら、絶対マトモじゃいられなくなる…」と、どうにか自制心が働きました。
でも私には又これとは別にどうしても抗し難く、その体験の証を求めようとする気持ちが有りました。
「あれがウソ、幻覚だったら何一つ確実なものなど求むべくも無くなるではないか?」
「夢から覚めてみて、この世を振り返ってみたら、あらゆるものが本体を欠いた砂上の楼閣の様に見える…」
「人々は命そのもの、そもそもの命の出どころというものを知らずに生きている…いや、生きているのではない…機械の如く動いているだけではないか!早晩、この見える現実は崩れ去る運命にある…」
こうした事に思いを馳せているうち、私がどういうことを問題にしているのかが徐々に分かって来ました。
それは…「これはもはや私個人の問題じゃない!」という事です。
自分は目覚め、至福感というものを味わった…それで完結、という訳にいかないのです。
それでオシマイと思っている人は…多分オメデタイのでしょう?(色々な意味で…)
これは、よくよく自分の気付きというものを探ってみれば、次のように自明の事です。
「私は一個人として切り離されてあるのでは無く、一切との繋がりとしてある、それを広げれば世界人類、宇宙ともなるものである…それが分離されてしまったら、もう自分は本体を失って宙に浮くしかないではないか!」 
そして「私はこの自分自身の大本、それを生かしているもの、神と言ってもいい…そのものの為に証を求めざるを得ない!」という具合に行き着くのです。
この事を見えざる導師に訴えました。
その答えは「お前は見た¡」の記事に書いた通りです。
これは一人一人に真我の目覚めというものが有るように、この有機的つながりにもそれが有り得るという予感をもたらします。
自己の内なる神性は表に顕れて、この見える世界へと歩み出すのです。
それは顕現されていくにつれて、この不調和極まる世界に、かの普遍調和世界が応現して来ることでしょう。
今の私は、あの時のように「証」を求めようという切羽詰まった気持ちは薄れました。
生きた証というのは取りも直さず、生きた「証人」に他なりません。
証人はそこ、かしこに見出せるからです。
もし、あなたにこの「証」を求める気持ちが起こってきたら…
こんな私でよかったら喜んでなりますよ…。

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八百万の神

2014-11-15 17:27:47 | 日本的霊性
日本人の宗教は八百万(やおよろず)の神の信仰だ、なんて当たり前のように言われてますね。
だけど、ホントにそうなんですかね…
欧米人はキリスト教、アラブ諸国はイスラム教…と言うように、日本人の宗教は…みたいに当てはまっちゃうんですか?
まさかあ…こんな現実に即してない事が一般常識みたいになってるんですか!
ウソだと思ったら周りの人たちに聞いてみたらいいです、「あなたは八百万の神様を信仰してるんですかと?」と。
「ハア?…」ときょとんとした顔されるのがオチです。
これをちょっと視点を変えて、日本には神社も有れば、お寺も有るし、教会だってある、新宗教も有れば、邪教でさえ、存在を許されている…
(いいか、悪いかは別としてテロを行使した宗教が即刻解散せずに存続しているところに、この国の不思議さを感じます。)
このような様々な神様が、様々な有り様で共存している様相を差して言われているのであれば、分からないでもありません。
神戸の元町へ行ったら面白いですよ!神社、お寺は勿論、カソリック教会に、回教寺院、ユダヤ教のシナゴーク、道教風の関帝廟、確かジャイナ教
寺院なんてのも有ったかな…楽しそうですね!一日に全部廻ってみたいな…勿論神妙にお祈りをするんですよ。
(カッコだけですけど…)
一日に三回違う宗教を廻った事ならありますよ、学生時代に。
大本でしょ、バハイ教、道院紅卍字会。(後の二つはナン? いずれも出口聖師の縁で大本と提携していたイラン、中国の団体です)
「不謹慎じゃないか!」という声が聞こえてきそうですが、私は全くそういう事には抵抗無く立ち回れます。
多分、この国に生を享けたからじゃないでしょうか?
元々そういう傾向は有りましたが、入っていた新宗教の呪縛から解放されてから、いっそうそうなって来ました。
確かそこを辞めてから数日後、空が真紅から紫に変わりつつあった夕昏時、沈黙の声がこうささやいた気がしました。

  お前はこれから自由に何でも縁を借りて、好きなように学ぶがいい
  ホラ、お前の前には色とりどりの学びの縁が有る
  さあ、手をのばすが良い、一歩踏み出すが良い
  ただし、私自身の通り道を開けといてくれよ
  私が通るその時までお前の学びは終わらないんだよ

宗教の枠とか相違など、乗り越えて行けという強い促しを感じました。
それはあたかも宗教の呪縛を吹っ切らせようとしている様でした。
そしてまだ見たことも無い様々な宗教が共存しながら、暮れゆく空に広がっている様でした。
そしてまた数年後、今度はハッキリとあらゆる宗教的なものが、それぞれの色合いで一なる大生命に根を持ちながら共存しているのを感じました。
それは表面的には、相対的な群雄割拠の様態を示している宗教に内包されているものでした。
このような普遍調和的な宗教的世界がもし、この世に具現化するならば、そのモデルケースとして最も近い国はこの日本を置いて他にはないでしょう。
我々は宗教間の戦争も知らず、一つの宗教による支配というものも知りません。
確かに我々の古来の宗教を借りて、外来の帝国主義が権力を欲しいままにした事は有りました。
しかしどうしたってこの国では、あの調和世界を覆い隠してしまうようなことは行われないようです。
こんなこと言ってる私は右よりの人間と思われるでしょうか?
どう思われようと構わないです。
ただこの国に生を享けただけですから…。






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神が表に顕れる

2014-11-14 20:42:31 | 日本的霊性
2012年12月22日ってどんな日だったか覚えてますか?
多くのスピ系を中心とした人たちが、その日が来るのをかたずを飲んで待ち受けていました。
そう、アセンション…地球が次元上昇するというその日は近未来の事だったハズが、今や過去の話になってしまった感がありますね。
様々な言説が飛び交い「もう使い古されてしまった」という印象もありますしね。
これは時期を特定した予言的言説の宿命ですね。
一分でもその時が経過したら過去形となる訳です。
でもこういう類の言説は昔から後を絶ちません。
我が国でも古くは明治時代に発祥した新宗教、大本教のそれは有名です。
「神が世に顕れて…この世をさらつにするぞよ…」
根源神艮の金神のお告げを取り次いだ、開祖出口なおさんの存在だけでも強烈なのですが、怪物と言われた教主出口王仁三郎さんの登場から、教団の周辺はにわかに暴風雨に見舞われたように到底ここでは書ききれない程、様々な事が起き始めました。
大正10年に時の政府により教団は弾圧を受けるのですが、当時の大本の機関紙などを読むともう「予言熱」に浮かされている感じで、危険団体というレッテルを張られても仕方ない、との印象を受けます。
「大正10年某月某日世の大立て替えが起こり、人民は3分になる…」
その後、離教して一派を成す論客、猛者連による威嚇的、脅迫的な文章が紙面を踊っていました。
ところが中心人物たる王仁三郎さん本人はというと、ある時からパッタリ売り物の開祖の神のお告げ~お筆先の予言的解釈や神がかり体験を促す霊学のことは引っ込め、もっぱらコッケイな社会風刺に満ちたエッセイを書いてました。
あまり表には出て来ず、有力幹部の自主性に任せていたようです。
そしてかたずを飲んでその日来る日を待っていた当人たちを待ち受けていたのは…教団の弾圧、粛清であった…。
この件を契機に、数人の有力幹部、論客たちはそれぞれの思惑を持って立ち去って行ったのでした。
「立て替えられたのは、自分たちだった」というオチです。
この出口王仁三郎という人は私にはもう、ずっと別格といった存在で未だに捉えきれない所があるのですが、みろくの世(来るべき理想天国)の到来についての信者さんの質問にこう答えています。
「皆みろくの世はいつ来るといって期待しているが、私には昔から来てをるのだ。なんぼみろくの世といっても、来ない人には何時まで経っても来ない。」

理想天国が来る前に、大峠と言うのが有ると言うのがこのテの話の定説です。
かの日には磁場が狂う…気温が急低下する…地軸が傾く…。
見ている世界は劇変するかも分かりません。
だが、見ている当体が変わらなかったら、一体それが何だというのでしょう。
「カタストロフィだ、大変だ、死ぬかも分からない…」
だが、「もう何時死んでもいいや」と死の恐怖が無くなってしまったら、一体それが何だというのでしょう。
カタストロフィに関する話と時期を切った予言の話というのは、どうやら付き物のようですね。
調和世界を垣間見た人にも多かれ少なかれ、劇変する近未来が予感されることがあります。
でも前者の観方とは根本的なズレがあるようです。
まず、時期を限ったヴィジョンとしては認識されないのが普通でしょう。
そのヴィジョンにはそもそも時間というものが無いからです。
近未来でなく、何時だってここにあるものだからです。
そしてカタストロフィに関するヴィジョンは知らされないのが普通でしょう。
喩え、天地がひっくり返ろうがその調和世界は微動だにしないものと認識されるでしょうから…
本質的な変容とは見える客体世界の事でなく、我々の意識のことです。
(これは決して使い古されるわけにはいかないでしょ!いくら分かったつもりになってても、現実になってみない事には…)
大本や日月神示に見える「神が表に顕れる」というのはこの事を暗示しているのではないでしょうか
何年何月何が起こる、かにが起こる…見ている世界ばかり見てたら…
「足もとからとりが立って、アフンとすることが出来するぞよ…」(大本神諭)











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お前は見た

2014-11-10 17:06:10 | 詩的文章
これは一体どういう事なのですか!

眩いばかりの調和世界から、僕は再び表側へと意識が向けられた

愕然とする光景が、繰り広げられていた

道行く人々は、果たして生きているのだろうか?

人々は自らの命の源を、知らずにいるのだ

それ無くしては、片時も生きられぬものを

この浮世の全ての営みは、本体の無いがらんどう

コンクリートの壁ばかりが、一面覆っている

川も池も原っぱも、全てが灰色に染まっている

命の絶たれた営みは、滅びるばかりなのか…
 
僕には分かりません¡ それでもここに戻るのですか

表と裏とには、動かぬ壁で隔てられているのですか

僕は紫に黄昏れゆく街中で、茫然と立ちつくしていた

すると…

光と闇とを分かちながら、知られざる雲がささやいた

お前は見た、上昇する大地を

お前は見た、天地をつなぐ柱を

お前は見た、生き通しの巨人を

お前は見た、遍く広がる光の筋を

お前は見た、光の綾なす連なりを

そうだ…お前は見たのだ

見えているものばかりが、全てでは無いのだ

人々は思いの中で、我々を拒否している

移ろう思いの底では、いつも我々とつながっている

本体を持たない影も無く、部分品だけの全体も無い

明かされることの無い、ものの真実などあるだろうか

裏側の本体は、表側の仮体に転じる

仮初のような人生の窓にも、永遠の今が映っている

お前の全ての縁の中に、我々自らを顕わす

お前がお望みならば、その瞬間をとくと見るがよい…


夢と現のはざまで、訳が分からなくなって

ほうほうの体で、歩いているうち

突き出たものに、躓いた

コンクリートを破って出たものは、巨木の根っこだった…















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