”こないだ、私の甥がやって来て大分色々話した。「一体叔父さんの信仰というのはどういうのか、時間空間を越えてしまうのか?」
「何を言っているか!時間空間の相対界で、絶対界をいただくような、そういう事なんだ…」と言ってやったよ。” (小池辰雄先生の在りし日の聖書講話)
改めてこのブログの基調的な事を書きます。
全く当たり前のことですが、こうしてブログを綴っている私も、それを読んでいる物好きな方もこの世、相対世界の中でそれをしているのですね。
指を動かさずに文字がいきなり現れたりはしない訳です。(笑)
何十年か前のパソコンもスマホも無かった頃からしたら、一体何の魔法かと思えるような驚くべき科学技術の進歩ですが、我々の生き方はそれに対応するように、生き易くなったかと言ったら甚だ疑問です。
この度の震災でも、様々なこと浮き彫りにされたように、我々はまだまだ制限された現実の中で生きている、という事を思い知らされます。
今は何もかもが行き詰まり、袋小路に追いやられている状況にある、ということを感じます。
こういう時だからこそ、次々と精神的なもの、スピ的なものが生まれ出てくるわけですね。
御存知のように、今までは宗教などで神とか何か超越的な存在に働きかけるようなものが主流でしたが、今じゃ、もう神信仰を通り過ぎて、自分が生まれも死にもしない、根源的一者に成り代わったようなことを言い出す人も出て来ました。
死生一如などと言いますが、ここは数千年前のインドなのでしょうか?…高齢社会と言いますが、我々は皆死を前にした老境に居るのでしょうか?…
このブログを立ち上げた一つの動機は、一見恵まれた環境に有ると思えるこの国で、毎年何万人にも及ぶ自死者の数に思いを向けた時、私の内面にはどうしても、”何であっても生きてて楽しけりゃいいじゃないか!”というものがあったからです。
だからやたらと虚無的な空論に終始するような間教には、しばしば違和感を覚えるのです。
そして、ここでは私が喜びに感じる事、幸福でいられるような事を中心に綴っている次第なのです。
人が喜びに感じる時、時間空間の制約を忘れてしまいますね。
そんな中で至福と感じる時というのは、こういう事の延長というか、さらなる制約の突破が有るまでです。
喜ばしき事態というものは、こちらの意志でそうなるものじゃありません。
引き寄せのナントカというものもあるようですが、望んでも無いようなことを引き寄せる場合の方が多いんじゃないですか?
又、そうしたことは置かれた境遇とは全く関係が有りません。
こうあらねば、こうしなければ…というものでは無い、突っ立っているだけでそうなるのを私は知っています。
つまりは生きているだけで、生かされているだけで幸福なのです。
私はキリスト教徒でも何でも無く、聖書より”お筆先”のようなのをよく読んでいる者ですが、難しいことは分かりませんが、福音というものの単純な意味なら知っています。”喜ばしきおとずれ”です。
この限界の彼方からの音信に預かるには、先ず本当に我々は限りある世界に生きている、という事を知らなければなりません。
でなければ、一体何が我々を超えたものであるのかが分かりません。
そして、それに預かれるものを飛び越えて彼岸に行ける道理など無く、我々が超越者そのものに取って代われる道理も無いのです。
(神に取って代わるなどと思いあがっていたら、そのうち人工知能が我々に取って代わることでしょう…)
そして、神を説く宗教は今や死に絶えた感が有ります。
しかし、神が何であるのかは分からないままです。自分のことすら分からないのですから当然なのですが…
何かは分からないけれども、表現は多々あれど”愛”とか”ハタラキ”としか言いようのないものは知らされています。
福音とはそれに預かること…キリスト教徒の特権じゃないです。
この世に生きている全てのただの人の特権です…。
「何を言っているか!時間空間の相対界で、絶対界をいただくような、そういう事なんだ…」と言ってやったよ。” (小池辰雄先生の在りし日の聖書講話)
改めてこのブログの基調的な事を書きます。
全く当たり前のことですが、こうしてブログを綴っている私も、それを読んでいる物好きな方もこの世、相対世界の中でそれをしているのですね。
指を動かさずに文字がいきなり現れたりはしない訳です。(笑)
何十年か前のパソコンもスマホも無かった頃からしたら、一体何の魔法かと思えるような驚くべき科学技術の進歩ですが、我々の生き方はそれに対応するように、生き易くなったかと言ったら甚だ疑問です。
この度の震災でも、様々なこと浮き彫りにされたように、我々はまだまだ制限された現実の中で生きている、という事を思い知らされます。
今は何もかもが行き詰まり、袋小路に追いやられている状況にある、ということを感じます。
こういう時だからこそ、次々と精神的なもの、スピ的なものが生まれ出てくるわけですね。
御存知のように、今までは宗教などで神とか何か超越的な存在に働きかけるようなものが主流でしたが、今じゃ、もう神信仰を通り過ぎて、自分が生まれも死にもしない、根源的一者に成り代わったようなことを言い出す人も出て来ました。
死生一如などと言いますが、ここは数千年前のインドなのでしょうか?…高齢社会と言いますが、我々は皆死を前にした老境に居るのでしょうか?…
このブログを立ち上げた一つの動機は、一見恵まれた環境に有ると思えるこの国で、毎年何万人にも及ぶ自死者の数に思いを向けた時、私の内面にはどうしても、”何であっても生きてて楽しけりゃいいじゃないか!”というものがあったからです。
だからやたらと虚無的な空論に終始するような間教には、しばしば違和感を覚えるのです。
そして、ここでは私が喜びに感じる事、幸福でいられるような事を中心に綴っている次第なのです。
人が喜びに感じる時、時間空間の制約を忘れてしまいますね。
そんな中で至福と感じる時というのは、こういう事の延長というか、さらなる制約の突破が有るまでです。
喜ばしき事態というものは、こちらの意志でそうなるものじゃありません。
引き寄せのナントカというものもあるようですが、望んでも無いようなことを引き寄せる場合の方が多いんじゃないですか?
又、そうしたことは置かれた境遇とは全く関係が有りません。
こうあらねば、こうしなければ…というものでは無い、突っ立っているだけでそうなるのを私は知っています。
つまりは生きているだけで、生かされているだけで幸福なのです。
私はキリスト教徒でも何でも無く、聖書より”お筆先”のようなのをよく読んでいる者ですが、難しいことは分かりませんが、福音というものの単純な意味なら知っています。”喜ばしきおとずれ”です。
この限界の彼方からの音信に預かるには、先ず本当に我々は限りある世界に生きている、という事を知らなければなりません。
でなければ、一体何が我々を超えたものであるのかが分かりません。
そして、それに預かれるものを飛び越えて彼岸に行ける道理など無く、我々が超越者そのものに取って代われる道理も無いのです。
(神に取って代わるなどと思いあがっていたら、そのうち人工知能が我々に取って代わることでしょう…)
そして、神を説く宗教は今や死に絶えた感が有ります。
しかし、神が何であるのかは分からないままです。自分のことすら分からないのですから当然なのですが…
何かは分からないけれども、表現は多々あれど”愛”とか”ハタラキ”としか言いようのないものは知らされています。
福音とはそれに預かること…キリスト教徒の特権じゃないです。
この世に生きている全てのただの人の特権です…。