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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただの人の福音

2016-04-21 11:55:22 | 哲学・思想
”こないだ、私の甥がやって来て大分色々話した。「一体叔父さんの信仰というのはどういうのか、時間空間を越えてしまうのか?」
「何を言っているか!時間空間の相対界で、絶対界をいただくような、そういう事なんだ…」と言ってやったよ。” (小池辰雄先生の在りし日の聖書講話)

改めてこのブログの基調的な事を書きます。
全く当たり前のことですが、こうしてブログを綴っている私も、それを読んでいる物好きな方もこの世、相対世界の中でそれをしているのですね。
指を動かさずに文字がいきなり現れたりはしない訳です。(笑)
何十年か前のパソコンもスマホも無かった頃からしたら、一体何の魔法かと思えるような驚くべき科学技術の進歩ですが、我々の生き方はそれに対応するように、生き易くなったかと言ったら甚だ疑問です。
この度の震災でも、様々なこと浮き彫りにされたように、我々はまだまだ制限された現実の中で生きている、という事を思い知らされます。
今は何もかもが行き詰まり、袋小路に追いやられている状況にある、ということを感じます。
こういう時だからこそ、次々と精神的なもの、スピ的なものが生まれ出てくるわけですね。
御存知のように、今までは宗教などで神とか何か超越的な存在に働きかけるようなものが主流でしたが、今じゃ、もう神信仰を通り過ぎて、自分が生まれも死にもしない、根源的一者に成り代わったようなことを言い出す人も出て来ました。
死生一如などと言いますが、ここは数千年前のインドなのでしょうか?…高齢社会と言いますが、我々は皆死を前にした老境に居るのでしょうか?…
このブログを立ち上げた一つの動機は、一見恵まれた環境に有ると思えるこの国で、毎年何万人にも及ぶ自死者の数に思いを向けた時、私の内面にはどうしても、”何であっても生きてて楽しけりゃいいじゃないか!”というものがあったからです。
だからやたらと虚無的な空論に終始するような間教には、しばしば違和感を覚えるのです。
そして、ここでは私が喜びに感じる事、幸福でいられるような事を中心に綴っている次第なのです。
人が喜びに感じる時、時間空間の制約を忘れてしまいますね。
そんな中で至福と感じる時というのは、こういう事の延長というか、さらなる制約の突破が有るまでです。
喜ばしき事態というものは、こちらの意志でそうなるものじゃありません。
引き寄せのナントカというものもあるようですが、望んでも無いようなことを引き寄せる場合の方が多いんじゃないですか?
又、そうしたことは置かれた境遇とは全く関係が有りません。
こうあらねば、こうしなければ…というものでは無い、突っ立っているだけでそうなるのを私は知っています。
つまりは生きているだけで、生かされているだけで幸福なのです。
私はキリスト教徒でも何でも無く、聖書より”お筆先”のようなのをよく読んでいる者ですが、難しいことは分かりませんが、福音というものの単純な意味なら知っています。”喜ばしきおとずれ”です。
この限界の彼方からの音信に預かるには、先ず本当に我々は限りある世界に生きている、という事を知らなければなりません。
でなければ、一体何が我々を超えたものであるのかが分かりません。
そして、それに預かれるものを飛び越えて彼岸に行ける道理など無く、我々が超越者そのものに取って代われる道理も無いのです。
(神に取って代わるなどと思いあがっていたら、そのうち人工知能が我々に取って代わることでしょう…)
そして、神を説く宗教は今や死に絶えた感が有ります。
しかし、神が何であるのかは分からないままです。自分のことすら分からないのですから当然なのですが…
何かは分からないけれども、表現は多々あれど”愛”とか”ハタラキ”としか言いようのないものは知らされています。
福音とはそれに預かること…キリスト教徒の特権じゃないです。
この世に生きている全てのただの人の特権です…。









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公言・流言

2016-04-17 12:05:45 | スピリチュアル?
あの朝、恐ろしい揺れに見舞われた直後、窓越しでしたが、外が稲妻のように光っていた(これが例の発光現象と思われます)のが見え、その直後辺りが全て真っ暗闇に包まれました。停電です。
私は着の身着のまま外に出たのですが、早朝のこととて誰一人見当たりません。
この時とても印象に残っているのは、なんて月の光は明るいものだったのか…ということでした。
それ以外の灯りというものは全て途絶えてしまった…ああ、お月さんあっての闇の間である事よ…
そして、家財が散乱しているし、またあの揺れが襲ってくるかと思うと、怖くて帰宅したくないので、しばらくの間私は情報というものが途絶えた中で寒空の中に街中を彷徨いました。
”一体何が起きたんだ!、本当に大地震なのか?、震源地は?”
とにかくこの時ほど正確な情報が欲しい…そして誰でもいいから話を交わしたい、と強く感じたことは無かったのです。
公的機関の情報。それはどこまで正確なものかは分からない…しかし、こんな時はそれに頼らざるを得ないのです。
こうした異常事態の時は情報も錯そうしがちですが、数十分後、停車中のタクシーに載せてもらって、ラジオ放送に接した時は本当に有難く思ったものです。
そして情報が明らかになるにつれて、空も徐々に明けてきだし、地震のもたらした現状も目の当たりにしたのでした。
(ただ、数日後、私の居住していたところから、十分ばかし歩いた、川向こうの市で見た惨状とは比較にならないくらいマシなものでしたが…)
一時間半くらいで公衆電話が開通したので、列に加わり待っていた時、再びグラ、グラッ…列のあちこちから悲鳴が上がる…震度4クラスの余震です。
その後、多分しばらくは大丈夫だろうと思い、家に帰りました。もう、体中から力が抜けてしまって何もする気がしません。体力も気力も無くなり、ごった返した家財もほとんど手着かずのままの状態でした。
こんな時、もし再びあの大地震に見舞われたら…と想像すると…
(この度の被災の、そのかつて聞いた事の無い続けざまの大揺れ…全く察するに余るものが有ります…)
この間、私は又知人から心無いデマ、流言も電話で聞きました。
”一両日中にあんな程度で済まない大地震がやってくる…”んだと!…バカヤロー!
大阪在住のこの人間は、あの危急存亡の一瞬に会ったことなど無いのです。
こういう時になると必ずといっていいほど飛び交うこのデマ、流言の数々…スピ界経由のものなど、スピ界の浅はかさ、愚かさを天下に公言しているようなものです。
彼らは自分自身の現実(私はこの現実という意味を多義的に使っています)としっかり向き合うことが出来ない悲しい人間です。
彼らが本当に生きた、動かしがたいリアルな現実に触れるということは、まずありえないことです!
そして、確証も無く空想、憶測に基づいた情報に容易く飛びつき、困ったことに外部に無責任なタレ流しをし始めるのです。
言っていることのほとんどは他人事に終始しています。
バーチャルな信仰まがいの話ばかりで少しもリアルなものは伝わってきません。
何故ならば、その言葉は所詮誰かからの借物であり、おおよそ誠、真という心性を欠いた仮物に過ぎないからです。
そもそもの発信源というものが又、どこから借りてきたものなのか分かったもんじゃないのです。
彼らはそして又臆面も無く言う、”公的機関の情報には騙されちゃいけません…”と…
だったら、ずっと全ての情報の途絶えた中で、宇宙人との通信などに明け暮れていたらよろしいじゃないですか!
この人たちに本当に必要な事は意識がひっくり返るような”激震”に見舞われることでしょう…
所謂公共の言葉、公言というものがどこまで真実なのかは分かりませんし、今回でもその限界に突き当たっている事が見えています。
でも少なくとも(見たままの、ありのままの)の現実に即したものを伝えようとしている企図は伝わってきます。
数多の流言の限りない浮遊感とは訳が違います。
限界とは、想定外のことが沢山起きているという事です。
今回の震災は、多くの点で21年前の阪神大震災と共通する面が有りますが、この点が大きく違うようです。
発光現象も地震雲も今では、オカルトまがいの妄言と一笑に伏されることも無くなってきたと思います。
公的機関の限界を知った民間の学者たちも又あくまで現実に即して限界に挑もうとしているようです。
公的情報も想定外な事に対応を余儀なくされてくるのでしょう…。







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危急存亡の祈り

2016-04-16 19:42:32 | 祈りと瞑想
この度の熊本大地震、被災された方は大変な思いをされていることと思います。
月並みな事しか申し上げられませんが、心より平安をお祈りします。

大地震というものは、実際に災難に見舞われた方じゃないと分からないでしょうね。
私は1995年1月、阪神大震災を兵庫県で目の当たりにした事が有ります。
私の居住していた地域は、震度6。生まれて初めて恐ろしい揺れを体験しました。
この時私に感じられたことは、熊本で被災されたある方が語っていたことと同じものでした。
”まさかこの町で大地震に遭遇するとは思ってもみなかった…”
”起きるはずの無いことが起きた!…”こんなこと言うと、オーバーに感じられるかも分かりませんが、これは単なる地震なんかじゃなく、この世の終末に関連した、とてつもない事態が起きた、などと思ったものです。
二日後に電車が動き出したので、朝、大阪梅田の地下街に出てみたら、異様な光景を目にしました。
まだ開店二時間くらい前にも関わらず、百貨店前にリュックなどを背負った人の長蛇の列が出来ていて、そのすぐ横で何事も無かったように、足取り早く出勤に急ぐ、いつも見慣れている人の流れ…
神戸方面から来ている人と、離れた地域から来ている人との意識の違いをハッキリ浮き彫りにしていたのです。
私は幸い、かすり傷、打撲程度で済んだのですが、あの危急存亡の事態というものは分かります。
ああいう時というのは、ホントにホントにもう、祈るしかありません。
”祈ってどうなるのか、気休めじゃないのか…”と言う声も聞かれるかもわかりません。
”困った時の神頼み”などと普段クールな私も安易な信仰態度をバカにしたりします。
ものすごく手のひらを返したような、開き直った話に聞こえるかも知れませんが、危急存亡の時ぐらいは祈ったっていいじゃないか!…いや、どんな人だって、普段は運命は自分の力で切り開くものと自負している人も、無神論を決め込む人も、自然と手を合わしたりするものじゃないですか?
こういう場合には、どんな人にも与えられていることなのでしょう。
だからと言って、自分で今出来る事をしないで、ただ祈っているだけでいい、などとバカな事を言ってる訳じゃないですよ。
当たり前のことですが、私が普段書いていることというのは、危急存亡の事態ばかりを想定している訳ではありません。
自分の力で出来ること(人生の表側に関すること)と自分の力の及ばないこと(裏側に関すること)を混同させてしまうような事は言ってないつもりです!
最近のノンデュアリティの傾向にチョイ、チョイ批判的な事言ったりするのも、その辺りのことに感ずるところが有るからに他ならないのです。
又、OOの祈りとか、特定の人向きの祈りなどは、特定の人に任せておけばいいです。
でも、もしあなたや私自身の身に迫る問題に直面した時、どこかの集団に帰属したものでなく、自分自身から自ずから祈り心が現れてくるのではありませんか?
危急の時、人の顔つきは違ってくるものです。
自分に出来る事、出来ない事、力の及ばない事も思い知らされることも有るでしょう…
現実に直面していることを、究極の原理まがいのものが何の役にも立ちませんし、今わの際という時などで、瞑想などしてたら逃げ遅れてしまうでしょう…
でも、祈りというものは違います。祈りつつ自分の然るべき行動に取り組むことも出来ます。
祈りというのは形ではありません。
それは表側にも裏側にも通じているのです。
誰しもが、安直なばかりに挨拶みたいに”お祈りします…ご自愛下さい…”などと手紙などでしたためていますね。
皆、そうとは知らずに、”祈りはアールマイティなものであること”をやらされているのでしょうか?

だから…何であっても…私は祈ります。







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一番大事なこと

2016-04-14 18:30:36 | 雑感
昨夕、テレビ観てたら思わず、ゲラゲラ笑ってしまいました!

”負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと、ダメになりそうな時、
それが一番大事…”(それが大事)

”ああ、あった、あった、人生応援ソングみたいな…”
1991年のことでした。年明け早々湾岸戦争が勃発し、それまでバブルで浮かれていた、世の中の雲行きが俄かにおかしくなり始めた頃です。
私自身にもそれに連動するかのように、例の持病ともいえる、重たいものが頭の周囲にもたげてきたのでした。
その病状は、ポジティブな心掛けだの、”ガンバ!”などの空元気マントラなどでもどうにもなりゃしません!
”それ見たことか!バブルも崩壊したぞい!何が一番大事だって…るせー!どうもなりゃあせんがな!…負けたらどうすんのよ、投げ出したら、夜逃げしてる人だって、訳あって牢に入ってる人だっているんだぞ…”何か問題を抱えている人にはかえって、負担になりそうに感じたものです。
このアーティストは、大事MANブラザース・バンドというそうです。初めて知りました。
歌謡曲(死語!)でない、Jポップに疎い、私はやはりその年流行っていた、”愛は勝つ”と同じ歌手だと思っていました。私は(未だかつて)全く観てなかったのですが、どっちも同じ番組からブレイクしたようです。
リードヴォーカルのTさん自身もこの大ヒット曲が重くのしかかったのか、歌い続けているうち何が一番大事なことか分からなくなったそうです。(笑)
して、紆余曲折を経てこの度、この曲のアンサー・ソングがリリースされたのです。その歌詞の一部…

負けてもいい、投げ出してもいい、信じ抜けないこともあるだろう…泣いてもいい、逃げ出してもいい…

”ワハハハッ…こりゃ、面白すぎる~”…タイトルが又「神様は手を抜かない」ですって…
Tさん曰く「人生にはけっして最終回というものは無いから…」
いやあ、全くですね。人生には確かに前向きに諦めないことなどで切り開けることも有る…しかし、どうにもならない壁に突き当たることも…”こうなったら、オシマイだあ、オレの人生は!”と思っていた、その線を越えてしまう事も有ります。
この歌は人生の表側だけでは立ち行き出来ない人~それは全ての人に言えます!全人に向けた、全人生応援歌というべきでしょうか…
ALLMAN・ブラザース・ソングです。

一番大事なこと?…自分が出来る事で?…そうだなあ…今思う事は、買ってきたアイスクリーム早く食べる事ですかねえ…水の泡、いやバニラクリームの泡になっちゃ元も子も無いからねえ…
大層な事は分からないですねえ。いっぱい有るような気もするし、よく考えると、どうってこと無いような気もするし…
ホントに大事なことは、大事なことがやって来た時に分かるんじゃないですか?
その時は…負けなくっちゃならないし、投げ出さなくっちゃなりません!…人生からは逃げられても、これからは逃げられません!
神様は手抜きしないんですから…。



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パーフェクト・ヒューマン

2016-04-13 14:10:25 | 独語
僕にはどうしても勝てない人間てのが居る
天敵なのかも知れない、苦手だ!
ウー…こりゃ太刀打ちできんわ…
ヤツがそばに寄ってくると、もうどうしていいかわからなくなる…
ところが、ヤツときたら、じっつに人懐っこくて、呼んでもいないのに寄ってくるんだな…
き、来たゾオ…どうすりゃいいんだ…対処のしようが無いではないか!
おお…コントロールを失いそう…
な、何の用なんだよお、気安く話しかけるなよお…
し、しかし…どういう訳だか、ヤツのあのバカみたいなふるまいに接してると
僕の何かが落ちてしまうんだな…
いつの間にか、ヤツのペースにハマっちまうんだ…
コントロール不能になっちまうのか
いいや…コントロールなどしなくてよかったってことか!
不可侵条約撤廃…武装解除…
屈託のない笑…天然…コイツ、バカでねーの!
君は欠陥、弱点丸出し…スキだらけだ
ところがだ!…僕は分かってる、君にはどしても勝てない!
君は無敵なんだ!…僕は最初から負けてるんだ…
僕だって笑うことだってあるぜ!…”フフフッ…”
だが、君の前では、笑おうとすると、何故か顔が引きつっちまうじゃないか!
ああ、僕の不自然さ、ひねくれさ、虚飾さばかりが思い知らされちゃうよ!
自然体…って…な、何?

僕にはどうしても届かない、完璧な人間のようなヤツが居る
そいつは、しかしどこを見ても完璧にゃ見えない
むしろ、ズルんと、とても何か欠けて、抜けてるようにしか見えない
一見、才能があって、全然欠点も、スキもないような人間も居る
だが、ちっとも面白くない!
そういう人間が、抜けた一面を出す時こそ、面白いんだ…
何かを目差そうとし、身に着けようとし、学ぼうとする人間て…一体何だ…

”Ⅰ、m A Perfect Human”
あっちゃん、カックイイか…
僕には限りなくロボットのようにしか見えないが…


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