私はこれまでいくつかの宗教的、精神的グループと関わりがあったのですが、傍らで「これまで自分が求めてやまなかったものが"ここ"にはあった...」という旨の話を何度か聞いたことがあります。
そう語る人にとっては、その団体との縁というものは特別な意味があったのでしょう。
私には特別な"ここ"という団体というものはありませんでした。
"ここにこそ、真理がある"と、人は言う...こことは一体どこにあるのか...
ある時、ある人から「あなたは"ここ"に求めているものを見付けたんですよね、良かったですねえ...」と、勝手に決めつけたことを言われて、どうにも返答に困ったことがあります。
んなもん、心に思っても、感じてもないことを言えるか、ってんですよi
リップサービスでも言いません。私はそんなこと言ったことなどない...いや、ただの一度だけありました。
それはしかし、ものの弾みというか、こちらの思いを越えて口走ってしまったことだったのです。
それは平成4年の春、大調和協会の神戸支部の集会でのことでした。(16.2.24記事"わが城壁爆破さるi"参照)
そこで飛び出た言葉は、理性がほとんどぶっ飛んだ状態で言わされたもので、言葉にならないものでしたが、私の本心から出されたものには違いありません。
何にせよ、"思いを越えて言った、言わされた"というのはどうにも誤魔化しようもないものがあります。
思えば、これまでいくつかの道の縁を与えられながらも、何故両手を挙げてそれに参与するには至らなかったのでしょうか?
強固なる自我が主となっているから? それは言うまでもないことで、多くそれに起因しているのでしょうが、どうしても越えられない障壁があったのです。
これは自然調和世界の具現を告げる協会も例外では無かった...否、それはこの世の如何なる宗教的団体にはずっと付いてまわるものです。
自己とその集団との間に強固に横たわっているのです。
ここでは詳しくは触れませんが、私はそれまで協会特有の"クセ"(各々の団体には各々特有のクセというものがあります)のある言説というものを聞かされてきましたが、あまり私の内奥には、受け取られ、通られてはいませんでした。
それが正しくクセというものであり、障壁となったのです。
障壁とは、内なる普遍性に立ちはだかるあるものです。
普遍性というものから切り離されて、特別な"ここ"というものが主張される時、私の中から不協和音が生じてきます。
"ここ"というのは、どこにも見出だされることはなかったのです。
しかし、その時は至るところがここになってしまいましたi
それはハタラキが"ここ"に現存するということです。
あの怒髪天を突く、暴風の中で何事かを口走った時、一瞬でしたがそうなっていたということです。
その場には、どうとか、こうとかの個人の私も、大調和協会というものも無かったのです。
だが、皮肉にもその私に起因するその"ぶっ飛んだ"事態は、命位様、協会との間に容易に消え去らない溝を作ってしまうことになってしまいました。
もとより、こういう運命というのはどこかで予感していたことでしたが...
"ああ...この生ぬるさ、打破出来ないものか...どこかに出口は無いのかi ええい、この分厚いコンクリートの壁め、ぶっ飛んじまわないかなあ..."
このような火種は常に私に燻り続けていました。そして私は行き着くところまで行かないと気がすまない...
この事はおそらく命位様には分かっていたことでしょう...。
そう語る人にとっては、その団体との縁というものは特別な意味があったのでしょう。
私には特別な"ここ"という団体というものはありませんでした。
"ここにこそ、真理がある"と、人は言う...こことは一体どこにあるのか...
ある時、ある人から「あなたは"ここ"に求めているものを見付けたんですよね、良かったですねえ...」と、勝手に決めつけたことを言われて、どうにも返答に困ったことがあります。
んなもん、心に思っても、感じてもないことを言えるか、ってんですよi
リップサービスでも言いません。私はそんなこと言ったことなどない...いや、ただの一度だけありました。
それはしかし、ものの弾みというか、こちらの思いを越えて口走ってしまったことだったのです。
それは平成4年の春、大調和協会の神戸支部の集会でのことでした。(16.2.24記事"わが城壁爆破さるi"参照)
そこで飛び出た言葉は、理性がほとんどぶっ飛んだ状態で言わされたもので、言葉にならないものでしたが、私の本心から出されたものには違いありません。
何にせよ、"思いを越えて言った、言わされた"というのはどうにも誤魔化しようもないものがあります。
思えば、これまでいくつかの道の縁を与えられながらも、何故両手を挙げてそれに参与するには至らなかったのでしょうか?
強固なる自我が主となっているから? それは言うまでもないことで、多くそれに起因しているのでしょうが、どうしても越えられない障壁があったのです。
これは自然調和世界の具現を告げる協会も例外では無かった...否、それはこの世の如何なる宗教的団体にはずっと付いてまわるものです。
自己とその集団との間に強固に横たわっているのです。
ここでは詳しくは触れませんが、私はそれまで協会特有の"クセ"(各々の団体には各々特有のクセというものがあります)のある言説というものを聞かされてきましたが、あまり私の内奥には、受け取られ、通られてはいませんでした。
それが正しくクセというものであり、障壁となったのです。
障壁とは、内なる普遍性に立ちはだかるあるものです。
普遍性というものから切り離されて、特別な"ここ"というものが主張される時、私の中から不協和音が生じてきます。
"ここ"というのは、どこにも見出だされることはなかったのです。
しかし、その時は至るところがここになってしまいましたi
それはハタラキが"ここ"に現存するということです。
あの怒髪天を突く、暴風の中で何事かを口走った時、一瞬でしたがそうなっていたということです。
その場には、どうとか、こうとかの個人の私も、大調和協会というものも無かったのです。
だが、皮肉にもその私に起因するその"ぶっ飛んだ"事態は、命位様、協会との間に容易に消え去らない溝を作ってしまうことになってしまいました。
もとより、こういう運命というのはどこかで予感していたことでしたが...
"ああ...この生ぬるさ、打破出来ないものか...どこかに出口は無いのかi ええい、この分厚いコンクリートの壁め、ぶっ飛んじまわないかなあ..."
このような火種は常に私に燻り続けていました。そして私は行き着くところまで行かないと気がすまない...
この事はおそらく命位様には分かっていたことでしょう...。