「永遠との交わりの瞬間とでもいうものがある。この瞬間が過ぎ去り、私は再び(日常的)時間へ陥る。しかし、過ぎ去るのはあの(永遠との交わりの)瞬間ではなく、堕落した時間性のうちにある私である」(ベルジャーエフ「始源と終末」.行路社刊)
これはなにも突出した超越体験、覚醒体験と結びつける必要は無いと思いますが、誰にも人生には忘れられない瞬間というものがありますね。
フツーにこのように語られるものなのですが...よくよく考えてみれば、これってすごーくヘンなこと、そしてものすごーい逆説だと思いませんか?
我々は瞬間、瞬間移り変わってしまい、ここにいつまでも留めて置きたいようなことは、無情にも過ぎ去ってしまう、と感じているのです。
一方毎日毎日の日常の習慣的生活のことはどうでしょう。
その日の行動予定は忘れないようにメモして、いつものように出勤していつものように帰宅して...と、区切られた時間の繰り返しです。
何時間という量的に積み重ねられる時間に照らせば、我々はほとんどの時間をこうした終わりなき日常のうちに過ごすことを余儀なくされているのです。
しかし、あなたはこうした時間の繰り返しというものをいちいち覚えているでしょうか?
私には皆無...何も覚えちゃいません。全ては忘却の彼方です。
私と違って仕事をもっとも生き甲斐に感じている人なら、目標を達成したとか、成功した瞬間とかがその時間の中で、突出した時間として記憶されるかもしれません。(得てして達成感、世的成功といったものに結び付いた時、変質してしまうものですが...)
このように、本当に覚えていることというのは、非日常的瞬間なのです。映画、音楽、特別な人との出会い...
量的時間の上では、わずかな一時かもしれませんが、私の人生を強烈に印象付け、色付けているのはこの一時なのです。
これは量的なものには置き換えることの出来ない実存的時間、永遠の時に通じたものと言えるでしょう。
大概、こうしたことは記憶として、過去の想い出として思い起こされているものです。過ぎ去った過去のものとして...
しかし、このメモリーに息づいているものをじっくり、よーく味わってみて下さい。
生き生きと現在に甦ってくるのが感じられてきませんか?
それは何十年も前の古いレコードを、現在の時間で再生して聴くことにも似ていますが、それは永遠の時に刻まれているからこそ可能なのです。
私がしばしば"身に覚える"と言っているのは、頭の中の記憶とは、モ一つ根底的な細胞的レベル?の記憶についてのことなのです。
それは本当に単なる記憶とは違い、アリアリとした身体感覚を伴って再生されてきます。
何にせよ、そこに今もなお生きてハタライているものが感じられてくるはずです。
この事は、勘違いされやすいことですが、過去へのトラワレとか執着といったこととは全く別の話です。それは有識で無限、永遠なるものを取り込もうとしてかえって、永遠性が閉ざされるに至るようなことです。
"過去のこと、過ぎ去ったこと"と思い込むのも(美しい想い出に耽るのは自由ですが)、それに固着するのも頭が勝手にそう思い、そうしているに過ぎません。
これは我々が如何に内的、実存的、永遠に通じた時間というものを蔑ろにし、過去、現在、未来に分断された、思念に取り込まれた時間に自ら支配されている、ということを物語っているのです。
改めて思わされます。"人生とは思われたままのものではないi"
あなたの内なる聖所に刻まれているもの、息づいているものに心を合わせれば、人生は違ったものに変容してきます...。
これはなにも突出した超越体験、覚醒体験と結びつける必要は無いと思いますが、誰にも人生には忘れられない瞬間というものがありますね。
フツーにこのように語られるものなのですが...よくよく考えてみれば、これってすごーくヘンなこと、そしてものすごーい逆説だと思いませんか?
我々は瞬間、瞬間移り変わってしまい、ここにいつまでも留めて置きたいようなことは、無情にも過ぎ去ってしまう、と感じているのです。
一方毎日毎日の日常の習慣的生活のことはどうでしょう。
その日の行動予定は忘れないようにメモして、いつものように出勤していつものように帰宅して...と、区切られた時間の繰り返しです。
何時間という量的に積み重ねられる時間に照らせば、我々はほとんどの時間をこうした終わりなき日常のうちに過ごすことを余儀なくされているのです。
しかし、あなたはこうした時間の繰り返しというものをいちいち覚えているでしょうか?
私には皆無...何も覚えちゃいません。全ては忘却の彼方です。
私と違って仕事をもっとも生き甲斐に感じている人なら、目標を達成したとか、成功した瞬間とかがその時間の中で、突出した時間として記憶されるかもしれません。(得てして達成感、世的成功といったものに結び付いた時、変質してしまうものですが...)
このように、本当に覚えていることというのは、非日常的瞬間なのです。映画、音楽、特別な人との出会い...
量的時間の上では、わずかな一時かもしれませんが、私の人生を強烈に印象付け、色付けているのはこの一時なのです。
これは量的なものには置き換えることの出来ない実存的時間、永遠の時に通じたものと言えるでしょう。
大概、こうしたことは記憶として、過去の想い出として思い起こされているものです。過ぎ去った過去のものとして...
しかし、このメモリーに息づいているものをじっくり、よーく味わってみて下さい。
生き生きと現在に甦ってくるのが感じられてきませんか?
それは何十年も前の古いレコードを、現在の時間で再生して聴くことにも似ていますが、それは永遠の時に刻まれているからこそ可能なのです。
私がしばしば"身に覚える"と言っているのは、頭の中の記憶とは、モ一つ根底的な細胞的レベル?の記憶についてのことなのです。
それは本当に単なる記憶とは違い、アリアリとした身体感覚を伴って再生されてきます。
何にせよ、そこに今もなお生きてハタライているものが感じられてくるはずです。
この事は、勘違いされやすいことですが、過去へのトラワレとか執着といったこととは全く別の話です。それは有識で無限、永遠なるものを取り込もうとしてかえって、永遠性が閉ざされるに至るようなことです。
"過去のこと、過ぎ去ったこと"と思い込むのも(美しい想い出に耽るのは自由ですが)、それに固着するのも頭が勝手にそう思い、そうしているに過ぎません。
これは我々が如何に内的、実存的、永遠に通じた時間というものを蔑ろにし、過去、現在、未来に分断された、思念に取り込まれた時間に自ら支配されている、ということを物語っているのです。
改めて思わされます。"人生とは思われたままのものではないi"
あなたの内なる聖所に刻まれているもの、息づいているものに心を合わせれば、人生は違ったものに変容してきます...。