人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍性と妥当性

2018-04-20 17:28:29 | スピリチュアル?
私はこれまで様々な宗教的、スピ的な集まりと関わってきました。
それらの本、ネットなどにも親しんできました。
そのほとんどのものが一様に"自我、エゴ"を敵視し、極端なものになると、"無くさなければならない"などと宣い、最近では"そもそもエゴというより、個人なんてものは最初から無い"ってことにして...もう、エゴ、自我、個我への憎悪はエスカレートするばかりです。
しかし、そうして見聞きしてきて、あらためて思うことは、"何とこの周辺にはエゴ、自我的な言葉で溢れかえっていることかi"ということです。
"あのね...人間てーのは、エゴが生きているものなんじゃないの? 何でそんな当たり前のこと殊更問題にしなきゃならないの? エゴだi 自我だi 個だi とフレ回らなければ、どうってことないんじゃないの?"
要するにエゴのことを殊更問題にして、騒いでいるのはエゴってことでしょう。
そうやって、問題にならないような問題を次々に掘り起こしているようなものです。
自分はさもエゴから離れているように見せ掛けようとしても、言葉の端に出てしまうもの...
"この教え、メソッドこそは、他とは比べものにならぬくらい最高のもので..."、"エゴから離れるには、自由になるには、悟るにはこうしたらいいんですよ~"...
どれだけ、こんな自己本位の言葉に接してきたことかi
不食とか脱炭水化物とか陰謀論とかアセンションとか...その周辺に纏わるアイテムにしても、人の好き好きで、その人が勝手にハマっているだけならいいものの、この人たちの救い様の無い病根は、他に伝え、広めずにおれない熱情に憑かれていることです。
これだけで如何にエゴ性が強いかが伺われようというものでしょう。
その人たちが信じて疑わない、頭の中のそれら何らの確証も無い偏った言説が、さも普遍妥当性のあるものとして解釈され、無責任に拡散され続けてしまうのです。
私はこれまで何度も"人生の裏側では、普遍的なものを目の当たりにする"などと言ってますが、それは普遍妥当性とは全く違います。
私が目の当たりにしている普遍性と、隣のAさんが見ている普遍性と合致するものなのか、どうかなど知ったこっちゃありません。
それを証明出来るものなど何一つ無いのです。
ただここで言う普遍性というものは、そこに自他が一つになるようにも、深く共感出来るものが開かれていることで自明なものとなるのです。
客観的証明のようなものがあったところで、頭で納得しても身が頷くことなどありません。
この相対世界に生きている人間は、一人一人違うものです。人生観も世界観も信じているものも、最愛なるものも...
普遍性とは、誰しもが一人一人違ったままで、そうなっているから普遍的なのです。
あなたも私も他に代えることの出来ないユニークな存在なのでしょう?
これはエゴだの自我だのと言うより、あなたと私の存在理由ってもんじゃないですか?
そして、エゴ的な思いとは、"あなたは私になるべきだ、私に従うべきだ"という心根からくるものでしょう。
他におもねり、他を取り込もうとする...そこには本来からの個性の自立というものがありません。
人を、世界をどうにかするよりも、あなたはあなた自身になることが先決なのです。
"あなたの真実は、あなた自身の神に聞け"ということです。そうして一人一人に普ねきものが開かれるのでしょう。
これは、もう得心するまで好きなこと、惹かれて止まないことを求めるしかありません。
おっとっと...私は"どうやったらいいのか"...ということはよう言わないんだった...
何しろ、私はその辺のエゴイ連中たあ、ちと違うんですから...ん。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦慄の第一ラウンド

2018-04-19 17:56:09 | 回想
先日のボクシング村田諒太選手のミドル級初防衛戦は圧巻でした。
終始自分のボクシングをしていた(相手にそれをさせていなかった)ように見えました。
村田選手の試合でいつも感じるのは、前回の試合でもそうですが、体格面で全く外人相手と比べて見劣りがなく、むしろ優位に感じることです。それであのプレッシャーをかけ続けるのですから、相手はかなり威圧感を受けることでしょう。
これは、今までの我が国のボクサーでは、ことに中重量級では特筆すべきことです。これまで体格で負けていたという試合を何度観てきたことか...(そう言えば、残念なことになってしまった比嘉選手が、この劣った体格差を感じさせたのは、気のせいでしょうか?)
彼は、あのミドル級ゴロフキンと相対しても見劣りしないでしょう。実際の試合では、どうなるのか? 実現も夢では無い気もします。勝つことも?
しかし...村田選手も、ゴロフキンも"あんな試合"をおっぱじめる...何てことは想像もつきません。
あんな試合とは、私がもっとも観ていて鳥肌が立った、33年前4月、米国ラスベガスで行われたミドル級世界戦のことで、ゴロフキンと同じく、同級史上最強の声も高い王者マーベラス.マービン.ハグラーに、後に五階級制覇した、おそらく史上もっともスリリングな試合をするボクサー、"ヒットマン".トーマス.ハーンズが挑んだものです。
この試合はもう伝説になっており、色んなところで語られているので、ボクシング.ファンなら知らない人は居ないでしょう。
ことにその第一ラウンドこそは、多くの人が、"ラウンズの中のラウンド...最もシビレたラウンド"に挙げている程で、私もこんな観ていてションベンをチビりそうになったことはありません。
ハーンズが仕掛けて来るのは予想通りでした。"被弾する前に打て!" 彼の先制攻撃の迫力...そして"恐怖の一撃"のすさまじさは、前年、ロベルト.デュランを失神させた一戦で見せつけています。
驚いたのは、それに応戦したハグラーの方です。彼は普段序盤から仕掛ける事はほとんど無く、ジャブを突いて自分の距離を保ちながら好機を伺う...ネコみたいなスタイルです。ムダの無い、ネコ足のようなフットワークで、"つつー"と忍び寄る...そして、チャンスと見るや、どう猛なファイターに"豹変"するのですi そんなスロースターターの彼がのっけから明日なき戦いをやっているではありませんかi
"アッ...ハグラーの眉間が裂けた!"...しかし怯まずハーンズと強打の応酬を繰り広げる...ラウンドの後半、 ハーンズが打ち合いでは、分が悪いと、距離を取り始める...しかし、すぐにハグラーの装甲車のような前進を許してしまう...白熱の長い1Rが終わり、もう大方の勝敗は見えてしまいました。
2R...ハグラーはいつもの冷静なボクシングを見せます。ハーンズもアウトボクシングで立て直そうとしますが、ハグラーの圧力を防ぎ切れません。ハグラーは勝負どころを掴んだか...
3R...開始早々ハグラーのヒタイの傷がひどくなり、ドクターチェックが入る...ハーンズの勝機はこれによる負傷TKOか?
しかし、これでハグラーに、スイッチが入ったように又強打を繰り出し始めました。"もう、一発命中したら終わるだろう"と思ってたら、すぐテンプルに右がヒットi ハーンズは朽ち木が崩れるようにダウン...
試合の決着が早まったのは、ハグラーの負傷だったかもしれません。"止められる前に仕留めねば"ということ...
いや、あの1Rの両者の"明日なき戦い"を観たら誰でもそう感じざるを得ないでしょう。
試合後のインタビューでハーンズは記者からの「打ち合いを避けて、距離を取りながら戦う、という選択肢は無かったのか?」という質問に「あれしか勝てる方法は無かった」と答えていましたが、打たれ弱い自分の方にリスクのある、オール.オア.ナッシングの戦いを挑んだ彼の心意気もアッパレでした。
試合は一方的だったという観方もあるでしょうが、勝敗は紙一重です。ハグラーのようなどんなタフガイでもマトモに当たったら立ってられる保証等無い、ということを充分に感じさせる猛攻もハーンズは見せてくれました。それだけにハグラーも本気モード全開にならざるを得なく、ボクシング史に残る一戦となったのでしょう。
"これでしか勝てない"、"よしこれで勝てる"...三分間の中にその試合のすべてが凝縮されたような第一ラウンドだったと思います。
後にも先にもあんなスゲー試合は観たことありません。(リアルタイムで観たゾi)



コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネコ人間の生態(後)

2018-04-15 11:00:40 | 創作
依頼人の人からの情報によれば、この男下照氏...つまりネコ人間は、とてもミステリアスで常人離れしていて、掴み所が無いとのことだが、私には、俗物にしか思えないし、とても分かりやすい人間にしか映らない。
さっき、エサを取り損ねたのか、すごーく不機嫌な様子でスタスタと街中を歩いている。普段からブラブラとは歩かないようだ。
人と接触しそうになると、僅かなサイドステップでかわしている。"あ、アブナイ、自転車が横切るゾi" これもしなやかな瞬時のバックステップでかわす...けっしてドタドタとしないのだ。
全然ムダな動きが無いように見える。やはりネコ的な動きと言うべきか...
動きにムダが...いや...パタッと止まった...何だかムダに寄り道か...路の隅っこの方をじっと見つめている...わ、笑ったi...抜き足、差し足でその一方に近づいてゆく...ネコだ...ご本尊樣とご対面しているのだ。何とかスキンシップを試みようとするが、このツンデレなご本尊樣は音を立てずにどっかへ消えてしまった。
それでもこの見習い?のネコ人間は、ご満悦の様子だ。さっきまでとは表情が一変してしまった。なるほど...ツンデレである。
一見、ムダの無い動き、これはムダそうに見える余興に向けてエネルギーを蓄えているのだろうか?
そして、この余興と思えることに何と生き生きと映ることだろう...
で、私のこの仕事の本来の目的、怪しい"マタタビ"の所在、出所のことである。
すると、又脇目も振らず歩き出し、喫茶店に入っていった。すぐ近くの"ドタール"でなく、離れの"ベロンチョ"である。(どうでもいいが、あそこのアイスコーヒーは、あっちよりマイルドで氷が細かすぎなくてちょうどいい)
当然のことながら、ずっと奥の方の穴蔵みたいなところがお気に入りのようだ。
すると、カバンからタブレットを取りだし、動画か何かを観始めた。わ、笑ってる...これがいつもの日課らしい。私の憶測では、あれはネコ動画だろう...柴犬かオウムとのコラボか、トルコ在住の「あーにゃん」とかではないだろうか?
しかし、ご満悦そう...しばらくして、何かを打ち込み始めた。人生の裏側の、ちとヤバイ世界についての怪文書か何かだろうか?
時々、何か遠くの方を見つめている..."姿なき要人"でも居るのだろうか?
それとも、そいつはここで"マタタビ"を携えて姿を現すのだろうか?
いや、書き込みながら既に恍惚境に入っているようにも見える。不敵な笑いも浮かべているゾ...これはヤバそうだ。いつの間にかマタタビをコーヒーに混ぜたのか?
う~む、確かにミステリアスである。彼自身はやはり俗物にしか見えないのだが...その見てる先とか背景とかが、そういう感じなのだ。
何とかして、その秘密めいたものの正体を突き止めねばなるまい。
一時間くらい経っただろうか...私のこの秘密の任務は、唐突に中断されてしまったのである。
ネコ人間は、突然予想外の行動に出るのだ。私がトイレに入った間に姿をくらましたかと思ったら、いきなり音も立てずに背後から声をかけられたのである。
「あ、あのう...もし、もし...失礼ですが、さっきどっかでお目にかかりましたかな?」
ギクッi これはマズイ...尾行がバレてしまったのだろうか? 私が彼を観察していたと思ったのが、どっかで見られていたのだろうか? 全く抜け目のないネコ人間...油断も隙もない。
「い、イヤあ...気のせいじゃないですかねえ...ま、奇遇で行動が重なるってこともあるかもしれませんしねえ...」
「そうですか...最近、どうも何かに見られている、見透かされているような気がしてならないもので...」(ギクッi もう、固まりそう...すべてバラすしかないか...と思ったら...)
「いや、別にどっかのヒマな人間(な、なぬっi)に見られているとか、そういうことじゃあなくてね...ほら、よく言うでしょう..."お天道樣が見ている"とか...これにはどうも逆らえないようで...どんなに僕がバカなことになってようと、見られていることでバカなりに生きてられるってもんで...あなたもそういうの感じたことないですか?」
「そ、そうですねえ...こっちが見ているつもりで、何かに見られていたとか、捉えようとしたら、捉えられてしまったとかそういうことはあるかもしれませんねえ...」
「そうでしょう、そうでしょうよ...実は、僕は今ね...」

という訳で、何の因果か私は謎の怪文書を読まされるハメになってしまったのである。
捉えようとして、捉えられない...そして、いつの間にかこっちが捉えられてしまう...恐るべしi ネコ人間の魔力...
依頼人には、"マタタビの正体は結局分からなかった...しかし、そのニオイは確かにあるようだ。しかし、うっかり近づくとそのトリコになってしまうことになる...ネコにマタタビでなくて、ネコこそが、いやそれを取り巻くすべてがマタタビである" と伝えておこう。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネコ人間の生態(前)

2018-04-14 11:41:09 | 創作
私は探偵天野若彦。ある人物の素行を調べている最中で、早朝ある公園に来ている。
この男下照氏は、依頼人の話によると、いつもこの公園で何か恍惚の表情を浮かべて、ケッタイな動きをしているそうな...何でも絶対に姿を見せないという要人から、怪しい"ブツ"を仕入れて服用しているらしい...とのこと。
ベンチで彼が訪れるのを待っていると、いきなり姿を表したので驚いた。
ほとんど足音を立てず、スッ、スッと早足で歩くのだ。まるで忍者、いやネコだ。
ベンチに座ると、リラックスしながらもじっと周りの観察を怠っていない様子...こんなところもネコ染みている。
やっ...ポケットから何かを出すぞi 例のブツか...と思いきや、缶コーヒーだった。
そこに何かを混ぜるでもなく、安上がりの憩いの一時を楽しんでいるだけの様子だ。
瞑想か何かをしているようにも見える。すると、何やら首やら上体が勝手に動き出したではないか...と思いきや...ただ眠りこけてるだけであった。
そして、しばらくして目覚め、ネコのような大きなノビをして、スッ、スッと引き上げてゆく...それを観察していたら、"ワオi" 曲がり角で振り向いたのでビックリ...やはりネコみたいだ。

昼過ぎ、某所にある中古レコード店に姿を現す。
彼は非常に音楽鑑賞に熱心なようだ。LPレコードだ。中々、彼にしては不相応な貴族趣味じゃあないか?
目当てのもの以外は全く眼中に無いらしく、サッ、サッと素早く物色している...すると...とびっきりのエサを見つけたのか? もう、分かりきったような台詞が思い浮かぶ...「あ、あったぞi 目っけたぞi」
し、しかし...ジャケットを見ながら何故か固まってしまい、中々レジに向かおうとしない...
あ、財布の中身を確認したりしている...イヤ、ホントにビンボー貴族だな...迷っているのか、慎重なのか? やたらとその時間を費やすので、見ていてイラッとしてきそうだ。
して...私は衝撃的な場面を目撃したのであるi そのエサのレコード盤を別のセクションのコーナーに映し変えたのであるi 何というセコさであろう。
さしずめ、スイング.ジャズのコーナーから前衛ジャズのコーナーに移したかしたのだろう。
まるでネコがエサを砂で埋めて隠すのにソックリではないかi
結局、この度は観察、洞察を深めるだけで、そこを引き上げてしまった。

数時間経ち、再びそこに向かう彼を追っかける。"スタッ、スタッ"イヤ、その足の早いのなんの...脇目も振らず、店に入ってゆく...
金銭の都合が付いたのか、一大決心が付いたのだろう...一旦決心が付いたら迷いが無いようだ。何かに吸い寄せられるように、そのエサの隠し場所に赴く...こういうところがまるでネコ人間だ。ネコは実に慎重で無闇にエサに飛びかかろうとしないが、ある一瞬全心身を集中してその捕獲に取りかかるのだ。ネズミたちは行路のネコの攻撃をかわすことは出来ても、油断して帰路のネコの奇襲に不覚をとってしまうのだ。
し、しかし...
どうやら予期せぬ事態に見舞われたらしい...その台詞はこんなのに決まっている...
「な、無いi、な、何故だi、そ、そんなバカなi」
何度も、何度もその同じフェイクを施したコーナーを探している...「いや、待てよ、隠す場所を間違えているのか?」
その周辺も探している...執念深いというのか、諦めが悪いというのか...
やがて...天を仰いでため息をついた。「ああ、オレのエサなのに~」
結局、彼はネコのように狡猾な策略に溺れて、まんまとエサを"ネコババ"されてしまったのだ。
放心した様子で又も手ぶらで引き上げてゆく...
ポーカーフェイスのようで、あんな分かりやすい性格の人間も居ない。ネコ人間は何より表と裏の二面性があるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリジナリティって何だ?

2018-04-12 17:06:11 | 雑感
私は、スピ的なものを広く知っている訳では無いのですが、私が書いていること、例えば自分が何かを観照するのでなしに、何かに観照されているような感覚ー"照明"というようなことに触れている記事は、不勉強かもしれませんが、他にほとんどお目にかかったことがありません。これは実に、ジッつに重要なことなハズですよi そうでしょ?
そういうこと無しに、精神的な道での導きに預かれないのですよi 暗夜の灯火みたいなものなんです。
又、"現臨"というような表現にしても...それは抽象的でない、霊なるハタラキ、又真我的なものとつながることを一言で言い表しているものです。"このもの無くして一体何がスピリチュアリティかi "てなものですi
これはコペルニクスのような大発見かもしれない...ナアーンちゃって...
んな訳ないでしょーがi
私がいくらウヌボレの強い人間でも、本気でそんなこと考えているとしたらホントにお目出度いことです。
照明みたいなことは、古代からずっと所謂神秘主義(スーフィーには照明学派なんてのもある)などで言われ続けていることだし、第一に哲学の源泉であり、道標となるものなのです。
現臨と私が呼んでいる霊妙なハタラキの無いところに、すべての宗教もスピも生まれるハズが無いのですi そうでなければ、それはイミテーションでしかないでしょう。
私はいつもヘンテコリンな、目新しいそうな?ことを書いているようで、それはそういう言葉をデッチあげてるだけで、ホントはオリジナルなものなど何一つ無いのです。
色んな本を読んでいるのは、確かなことで、頭のどっかにあるようなことが勝手に表に出てきたり、そう、たまに借用することもある...かもしれない?(なるべく、誰の引用かというのは明記するようにはしてます)
あからさまなパクりはやらないようにしてますが、以前ほとんど時期を同じくして、似かよった内容の他の記事がアップされたこともあったり(数日私の方が早かった)、意図的でなしにそのように見られることもしてしまうこともあるでしょう。
そんな訳でこのブログに、オリジナルなものは求められないのです。
ことにオリジナルな教説、メソッド...全く無縁です。誰しもが頷ける(現実にはともかく?)ような普遍性に根差したものを...というような促しはどっかから受けていますが...
重要なことは偉大な先人たちが既に切り開き、述べ伝えられているのです。
このように、オリジナリティは欠如しているかも分かりませんし、遠慮なく先人の言葉も(それに敬意を表して)引用させてもらいますが、ただ私は言葉をこっちからあっちへ運ぶだけのことはしたくありません。
それは読み手にとっても、自分自身にとっても不誠実な態度と言わねばなりません。
誰しもがそうであるように、私の内には、コンコンと尽きて止まない、霊なる命のプールのようなものが認められます。
これがあるからこそ、他者のメッセージに触れて共感することが出来るのです。
おそらくは、そのプールは普遍的にあらゆる者と共有しているのでしょう。
だからこそ、私はそこで意識を高揚させ、理屈抜きにワクワクさせられる、その感じに預かったことを、その回廊を通過したことを伝えなければならないのです。私は普遍的なものを共有し合いたいのです。
ここにこそ我々の共同の源泉、真のオリジナリティというものがあるのです。
誰それの固有のオリジナリティらしきものがあったところで、"オレ、オレ"といった思念にまみれてしまったら、たちまち中古品になるだけでしょう。
どんなに使い古されたフレーズだろうと、内から涌き出るような言葉を越えたものが伝わるならば、その人らしさ、オリジナリティというものを感じないでしょうか?
始源的なものは思念を超えたものなのです。内なる生命に根差したものは常に新しい...
ま、新しいつもりでも、そう感じないとしたら、トシのせいでしょう。悪しからず...。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする