私はこれまで様々な宗教的、スピ的な集まりと関わってきました。
それらの本、ネットなどにも親しんできました。
そのほとんどのものが一様に"自我、エゴ"を敵視し、極端なものになると、"無くさなければならない"などと宣い、最近では"そもそもエゴというより、個人なんてものは最初から無い"ってことにして...もう、エゴ、自我、個我への憎悪はエスカレートするばかりです。
しかし、そうして見聞きしてきて、あらためて思うことは、"何とこの周辺にはエゴ、自我的な言葉で溢れかえっていることかi"ということです。
"あのね...人間てーのは、エゴが生きているものなんじゃないの? 何でそんな当たり前のこと殊更問題にしなきゃならないの? エゴだi 自我だi 個だi とフレ回らなければ、どうってことないんじゃないの?"
要するにエゴのことを殊更問題にして、騒いでいるのはエゴってことでしょう。
そうやって、問題にならないような問題を次々に掘り起こしているようなものです。
自分はさもエゴから離れているように見せ掛けようとしても、言葉の端に出てしまうもの...
"この教え、メソッドこそは、他とは比べものにならぬくらい最高のもので..."、"エゴから離れるには、自由になるには、悟るにはこうしたらいいんですよ~"...
どれだけ、こんな自己本位の言葉に接してきたことかi
不食とか脱炭水化物とか陰謀論とかアセンションとか...その周辺に纏わるアイテムにしても、人の好き好きで、その人が勝手にハマっているだけならいいものの、この人たちの救い様の無い病根は、他に伝え、広めずにおれない熱情に憑かれていることです。
これだけで如何にエゴ性が強いかが伺われようというものでしょう。
その人たちが信じて疑わない、頭の中のそれら何らの確証も無い偏った言説が、さも普遍妥当性のあるものとして解釈され、無責任に拡散され続けてしまうのです。
私はこれまで何度も"人生の裏側では、普遍的なものを目の当たりにする"などと言ってますが、それは普遍妥当性とは全く違います。
私が目の当たりにしている普遍性と、隣のAさんが見ている普遍性と合致するものなのか、どうかなど知ったこっちゃありません。
それを証明出来るものなど何一つ無いのです。
ただここで言う普遍性というものは、そこに自他が一つになるようにも、深く共感出来るものが開かれていることで自明なものとなるのです。
客観的証明のようなものがあったところで、頭で納得しても身が頷くことなどありません。
この相対世界に生きている人間は、一人一人違うものです。人生観も世界観も信じているものも、最愛なるものも...
普遍性とは、誰しもが一人一人違ったままで、そうなっているから普遍的なのです。
あなたも私も他に代えることの出来ないユニークな存在なのでしょう?
これはエゴだの自我だのと言うより、あなたと私の存在理由ってもんじゃないですか?
そして、エゴ的な思いとは、"あなたは私になるべきだ、私に従うべきだ"という心根からくるものでしょう。
他におもねり、他を取り込もうとする...そこには本来からの個性の自立というものがありません。
人を、世界をどうにかするよりも、あなたはあなた自身になることが先決なのです。
"あなたの真実は、あなた自身の神に聞け"ということです。そうして一人一人に普ねきものが開かれるのでしょう。
これは、もう得心するまで好きなこと、惹かれて止まないことを求めるしかありません。
おっとっと...私は"どうやったらいいのか"...ということはよう言わないんだった...
何しろ、私はその辺のエゴイ連中たあ、ちと違うんですから...ん。
それらの本、ネットなどにも親しんできました。
そのほとんどのものが一様に"自我、エゴ"を敵視し、極端なものになると、"無くさなければならない"などと宣い、最近では"そもそもエゴというより、個人なんてものは最初から無い"ってことにして...もう、エゴ、自我、個我への憎悪はエスカレートするばかりです。
しかし、そうして見聞きしてきて、あらためて思うことは、"何とこの周辺にはエゴ、自我的な言葉で溢れかえっていることかi"ということです。
"あのね...人間てーのは、エゴが生きているものなんじゃないの? 何でそんな当たり前のこと殊更問題にしなきゃならないの? エゴだi 自我だi 個だi とフレ回らなければ、どうってことないんじゃないの?"
要するにエゴのことを殊更問題にして、騒いでいるのはエゴってことでしょう。
そうやって、問題にならないような問題を次々に掘り起こしているようなものです。
自分はさもエゴから離れているように見せ掛けようとしても、言葉の端に出てしまうもの...
"この教え、メソッドこそは、他とは比べものにならぬくらい最高のもので..."、"エゴから離れるには、自由になるには、悟るにはこうしたらいいんですよ~"...
どれだけ、こんな自己本位の言葉に接してきたことかi
不食とか脱炭水化物とか陰謀論とかアセンションとか...その周辺に纏わるアイテムにしても、人の好き好きで、その人が勝手にハマっているだけならいいものの、この人たちの救い様の無い病根は、他に伝え、広めずにおれない熱情に憑かれていることです。
これだけで如何にエゴ性が強いかが伺われようというものでしょう。
その人たちが信じて疑わない、頭の中のそれら何らの確証も無い偏った言説が、さも普遍妥当性のあるものとして解釈され、無責任に拡散され続けてしまうのです。
私はこれまで何度も"人生の裏側では、普遍的なものを目の当たりにする"などと言ってますが、それは普遍妥当性とは全く違います。
私が目の当たりにしている普遍性と、隣のAさんが見ている普遍性と合致するものなのか、どうかなど知ったこっちゃありません。
それを証明出来るものなど何一つ無いのです。
ただここで言う普遍性というものは、そこに自他が一つになるようにも、深く共感出来るものが開かれていることで自明なものとなるのです。
客観的証明のようなものがあったところで、頭で納得しても身が頷くことなどありません。
この相対世界に生きている人間は、一人一人違うものです。人生観も世界観も信じているものも、最愛なるものも...
普遍性とは、誰しもが一人一人違ったままで、そうなっているから普遍的なのです。
あなたも私も他に代えることの出来ないユニークな存在なのでしょう?
これはエゴだの自我だのと言うより、あなたと私の存在理由ってもんじゃないですか?
そして、エゴ的な思いとは、"あなたは私になるべきだ、私に従うべきだ"という心根からくるものでしょう。
他におもねり、他を取り込もうとする...そこには本来からの個性の自立というものがありません。
人を、世界をどうにかするよりも、あなたはあなた自身になることが先決なのです。
"あなたの真実は、あなた自身の神に聞け"ということです。そうして一人一人に普ねきものが開かれるのでしょう。
これは、もう得心するまで好きなこと、惹かれて止まないことを求めるしかありません。
おっとっと...私は"どうやったらいいのか"...ということはよう言わないんだった...
何しろ、私はその辺のエゴイ連中たあ、ちと違うんですから...ん。