"瞑想するには、背筋をまっすぐにして、アゴを引き、足を組んで、手は膝の上に、呼吸は吐く方は多めに、吸う方は少なめにして、意識はどこそこのチャクラに集中して..."
ああ、メンドくさi
私は瞑想のハウツーものの本を読んだこともありますが、その細かいやり方についてのことからして読むことがイヤになってしまいました。
ハナっからやろうという気が起きてきません。
そうやって取り組んでいる人もおられるでしょうけど...楽しいのだろうか?
又、祈りというものについても、手は合掌したり、決められた姿勢で、そうでなければ効果が無いという、定められた祈りの文句を唱える、とか...もう、取り組もうとしているうちに、祈り心が失せそうになりそうです。楽しい?
こうしたものを私は、"瞑想のための瞑想、祈りのための祈り、修行のための修行..."などと言ったりするのですが、やる人はきっとやり続けるでしょう。ホントにやりたいのなら、他人が口を挟むことなどありません。
ホントにそうなのか、誰かにそう言われてる気がするからか、ただの惰性でし続けているのか、自分の気持ちに聞いたらいいのです。
まあ、瞑想でしたら健康、体力増進などのためという目的もあるでしょうが、そもそも何でそうしたものに赴こうとするのでしょうか?
"神とつながるため"だとか...そして、修行して心身を浄化して、欲望から離れようとするらしいですが、そうしないとつながることが出来ないでしょうか? そういう法則みたいなのがあって、あなたはそれを確かめたのですか?
もし、あなたのそういう思いとは別に、ジンジンと心身にそれまで味わったことの無いような感覚がもたげてきたのなら...それは意識が自ずと高まってきて、満たされてくる、平安がある...楽しいi
"いや、待てよ、それはヘンな霊のたぶらかしかもしれない...打ち消さねば..." いいでしょう、悪魔が退散するように存分に祈ったらいいでしょう。
それで消えるかもしれないし、消えないかも分かりません。消えたとしたら、愛、平安も消えるでしょう。
そして又、愛、平安を求めて祈り、瞑想をするのでしょうか? 何のために? 人生ってそんなに苦難だらけのものなのでしょうか?
神的なものが臨んで、つながってしまったら、形としての瞑想も祈りも必要無いではありませんかi
私はいつも意識が向いたら、それが臨んでくる、とか摩訶不思議そうなことを言っていますが、私がそういう人間でも何でもなくて、これはあちらの方からこちらに顕わになってくる、ハタラキかけてくる、ということを言っているのです。これが恩寵というものです。
この意識が自ずと向いちゃう、ということ自体がそういうことを言い表しているのです。
何か魂の平安を呼び覚まさずにおれないものがある...そのものに意識が向かざるを得ない...
そんな風なことが、ある意味では、修行ならぬ瞑想、祈り的なものと言ってもいいでしょう。
まあ、何でもいいのですが、要するに神的なものとつながればいいのですi これを欠いては本末転倒でしょう。
逆説的ですが、先の修行的瞑想、祈りでもいいのです(私はやる気が起きてこないですが)。楽しければ、喜びと共にあるのならば...神的なものが臨んだらどうしたってそうなるというもの...
小池先生は晩年いつも「君たち、集会は楽しいかい? そうでないなら集会なんかヤメた方がいいよ...」と言っていました。
私は今日の時代相というものに、神的なものの方が、顕わになり、我々にハタラキかけてきた、という実感を受けて、いつもこういうことを書かされているようなのです。
形としての、"こうやらなければならない"瞑想や祈りを超えて、一人一人が何の神であれ、仏であれ最愛のもの(最愛のものをイイカゲンなものに誤魔化してはならない)につながればいいのです。一人一人にとってホンモノであるものこそが普遍的なものです。
一人一人が真に平安に導かれれば、自ずと世界平和は実現されるでしょう。
ああ、メンドくさi
私は瞑想のハウツーものの本を読んだこともありますが、その細かいやり方についてのことからして読むことがイヤになってしまいました。
ハナっからやろうという気が起きてきません。
そうやって取り組んでいる人もおられるでしょうけど...楽しいのだろうか?
又、祈りというものについても、手は合掌したり、決められた姿勢で、そうでなければ効果が無いという、定められた祈りの文句を唱える、とか...もう、取り組もうとしているうちに、祈り心が失せそうになりそうです。楽しい?
こうしたものを私は、"瞑想のための瞑想、祈りのための祈り、修行のための修行..."などと言ったりするのですが、やる人はきっとやり続けるでしょう。ホントにやりたいのなら、他人が口を挟むことなどありません。
ホントにそうなのか、誰かにそう言われてる気がするからか、ただの惰性でし続けているのか、自分の気持ちに聞いたらいいのです。
まあ、瞑想でしたら健康、体力増進などのためという目的もあるでしょうが、そもそも何でそうしたものに赴こうとするのでしょうか?
"神とつながるため"だとか...そして、修行して心身を浄化して、欲望から離れようとするらしいですが、そうしないとつながることが出来ないでしょうか? そういう法則みたいなのがあって、あなたはそれを確かめたのですか?
もし、あなたのそういう思いとは別に、ジンジンと心身にそれまで味わったことの無いような感覚がもたげてきたのなら...それは意識が自ずと高まってきて、満たされてくる、平安がある...楽しいi
"いや、待てよ、それはヘンな霊のたぶらかしかもしれない...打ち消さねば..." いいでしょう、悪魔が退散するように存分に祈ったらいいでしょう。
それで消えるかもしれないし、消えないかも分かりません。消えたとしたら、愛、平安も消えるでしょう。
そして又、愛、平安を求めて祈り、瞑想をするのでしょうか? 何のために? 人生ってそんなに苦難だらけのものなのでしょうか?
神的なものが臨んで、つながってしまったら、形としての瞑想も祈りも必要無いではありませんかi
私はいつも意識が向いたら、それが臨んでくる、とか摩訶不思議そうなことを言っていますが、私がそういう人間でも何でもなくて、これはあちらの方からこちらに顕わになってくる、ハタラキかけてくる、ということを言っているのです。これが恩寵というものです。
この意識が自ずと向いちゃう、ということ自体がそういうことを言い表しているのです。
何か魂の平安を呼び覚まさずにおれないものがある...そのものに意識が向かざるを得ない...
そんな風なことが、ある意味では、修行ならぬ瞑想、祈り的なものと言ってもいいでしょう。
まあ、何でもいいのですが、要するに神的なものとつながればいいのですi これを欠いては本末転倒でしょう。
逆説的ですが、先の修行的瞑想、祈りでもいいのです(私はやる気が起きてこないですが)。楽しければ、喜びと共にあるのならば...神的なものが臨んだらどうしたってそうなるというもの...
小池先生は晩年いつも「君たち、集会は楽しいかい? そうでないなら集会なんかヤメた方がいいよ...」と言っていました。
私は今日の時代相というものに、神的なものの方が、顕わになり、我々にハタラキかけてきた、という実感を受けて、いつもこういうことを書かされているようなのです。
形としての、"こうやらなければならない"瞑想や祈りを超えて、一人一人が何の神であれ、仏であれ最愛のもの(最愛のものをイイカゲンなものに誤魔化してはならない)につながればいいのです。一人一人にとってホンモノであるものこそが普遍的なものです。
一人一人が真に平安に導かれれば、自ずと世界平和は実現されるでしょう。