私は、これまでの精神的な歩みの中で、ある特定の教えやメソッドなどに導かれることはほとんどありませんでした。ということは、そういうものは身に付いていないのです。
五井先生との関連で言えば、せいぜい毎日ほぼ「世界平和の祈り」にほぼ則った祈りを毎朝のようにしているくらいなのですが、これはほとんど習慣でしていることなのです。
これはある意味では"身に付いている"と言ってもいいかもしれませんが、先のような、全く身体レベルで自然に自己と一枚になってしまうような有り様とは違うことなのです。
こんな訳で、私はある団体、教えにしか通用しないものには精神が赴くことは無かったのです。
例えば件の祈りというのもそうですが、五井先生の信奉者の中には、先生による統一行のテープを"聴かなければならないi"、と信じ込んでいる者も居るのですが、それ以外の者にとっては全くバカげた話という他ないでしょう。
経験のある方にはお分かりでしょうが、内なる催しというか、神的なものが臨んでくるというか、そういう思いを超えたハタラキというものは忽念と、風が吹くようにやってくるものです。そういう事態になる際にも、テープを操作する作業に携わってなければならないのでしょうか?
そういう人為的なことに構っているうちに、無為的なハタラキは過ぎ去っていってしまうでしょう。
それが、今生で有るか無いか分からないような、神縁と出会うことになるかも分からないのに...じっつにナンセンスなこったi
特定の教えやメソッドと関わらない有り様とは、こういうことを言っているのですi
それは全く、形も手順もなく、捉えることの出来ないものです。
とはいえ、最初からそんな掴みようのない話をしてても、取り付く島も無いということもあるでしょう。
だからして...ある教え、メソッドに則るということもあるのでしょう。
これはしかし、方便的な性格のものと言うべきものです。
方便とは自体が相対的なものであり、これを絶対視し、末葉末節的なことに囚われたら、相対次元を超えたものに開かれることは出来なくなるでしょう。
言い換えると、それは思念、思議、有識に囚われているということです。
方便というものには、そこを開き、超えて実見される、方便ならざるあるものの消息が隠されているものです。
意識がそちらに開かれるか、思念に取り込まれて閉ざしてしまうかで、その人の歩みは大きく変わったものになるでしょう。
私は五井先生には、この方便を超えたものの消息は伝えられていると感じております。
著書の中で、特に一連の"聖ケ丘講話"という、先生の口調の特徴などが出ており、より生の先生に近い姿に触れられるシリーズには随所にそうしたものが伺われます。
それを一言で言えば、"どんな思いであれ、神的なものに入れちゃいなさい..."、"思いが神の中にあれば、超えられる..."ということになるでしょうか?
これは、信者には随分と見受けられますが、諸々の思いに囚われ、自分の思いで自分を超えるというようなことでは無いはずのものです。
しかし、先生がめざしていた、広い、大衆に向けての真理の伝達には、そこには数多の、異なる層に渡る想念が、くんずほぐれずと渦巻いていた訳で、誰が如何ように導かれるかは一様でなかったということも事実でしょう。
私自身、その方便的なもの、それならざるもの共々に接して来た訳ですが、この歩みが果たして正しかったか、どうかは自分では分かりません。
ただ、私の道において最初にそれを切り開く縁となったのは、五井先生との出会いであったのは間違いないことなのです。
諸々の理屈、道理などを超えて、ずっと変わらず息づいているものは、その縁と共に私の中にはあるのです。
五井先生との関連で言えば、せいぜい毎日ほぼ「世界平和の祈り」にほぼ則った祈りを毎朝のようにしているくらいなのですが、これはほとんど習慣でしていることなのです。
これはある意味では"身に付いている"と言ってもいいかもしれませんが、先のような、全く身体レベルで自然に自己と一枚になってしまうような有り様とは違うことなのです。
こんな訳で、私はある団体、教えにしか通用しないものには精神が赴くことは無かったのです。
例えば件の祈りというのもそうですが、五井先生の信奉者の中には、先生による統一行のテープを"聴かなければならないi"、と信じ込んでいる者も居るのですが、それ以外の者にとっては全くバカげた話という他ないでしょう。
経験のある方にはお分かりでしょうが、内なる催しというか、神的なものが臨んでくるというか、そういう思いを超えたハタラキというものは忽念と、風が吹くようにやってくるものです。そういう事態になる際にも、テープを操作する作業に携わってなければならないのでしょうか?
そういう人為的なことに構っているうちに、無為的なハタラキは過ぎ去っていってしまうでしょう。
それが、今生で有るか無いか分からないような、神縁と出会うことになるかも分からないのに...じっつにナンセンスなこったi
特定の教えやメソッドと関わらない有り様とは、こういうことを言っているのですi
それは全く、形も手順もなく、捉えることの出来ないものです。
とはいえ、最初からそんな掴みようのない話をしてても、取り付く島も無いということもあるでしょう。
だからして...ある教え、メソッドに則るということもあるのでしょう。
これはしかし、方便的な性格のものと言うべきものです。
方便とは自体が相対的なものであり、これを絶対視し、末葉末節的なことに囚われたら、相対次元を超えたものに開かれることは出来なくなるでしょう。
言い換えると、それは思念、思議、有識に囚われているということです。
方便というものには、そこを開き、超えて実見される、方便ならざるあるものの消息が隠されているものです。
意識がそちらに開かれるか、思念に取り込まれて閉ざしてしまうかで、その人の歩みは大きく変わったものになるでしょう。
私は五井先生には、この方便を超えたものの消息は伝えられていると感じております。
著書の中で、特に一連の"聖ケ丘講話"という、先生の口調の特徴などが出ており、より生の先生に近い姿に触れられるシリーズには随所にそうしたものが伺われます。
それを一言で言えば、"どんな思いであれ、神的なものに入れちゃいなさい..."、"思いが神の中にあれば、超えられる..."ということになるでしょうか?
これは、信者には随分と見受けられますが、諸々の思いに囚われ、自分の思いで自分を超えるというようなことでは無いはずのものです。
しかし、先生がめざしていた、広い、大衆に向けての真理の伝達には、そこには数多の、異なる層に渡る想念が、くんずほぐれずと渦巻いていた訳で、誰が如何ように導かれるかは一様でなかったということも事実でしょう。
私自身、その方便的なもの、それならざるもの共々に接して来た訳ですが、この歩みが果たして正しかったか、どうかは自分では分かりません。
ただ、私の道において最初にそれを切り開く縁となったのは、五井先生との出会いであったのは間違いないことなのです。
諸々の理屈、道理などを超えて、ずっと変わらず息づいているものは、その縁と共に私の中にはあるのです。