人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

方便とそれを超えたもの

2019-11-22 11:33:57 | 人生の教師
私は、これまでの精神的な歩みの中で、ある特定の教えやメソッドなどに導かれることはほとんどありませんでした。ということは、そういうものは身に付いていないのです。
五井先生との関連で言えば、せいぜい毎日ほぼ「世界平和の祈り」にほぼ則った祈りを毎朝のようにしているくらいなのですが、これはほとんど習慣でしていることなのです。
これはある意味では"身に付いている"と言ってもいいかもしれませんが、先のような、全く身体レベルで自然に自己と一枚になってしまうような有り様とは違うことなのです。
こんな訳で、私はある団体、教えにしか通用しないものには精神が赴くことは無かったのです。
例えば件の祈りというのもそうですが、五井先生の信奉者の中には、先生による統一行のテープを"聴かなければならないi"、と信じ込んでいる者も居るのですが、それ以外の者にとっては全くバカげた話という他ないでしょう。
経験のある方にはお分かりでしょうが、内なる催しというか、神的なものが臨んでくるというか、そういう思いを超えたハタラキというものは忽念と、風が吹くようにやってくるものです。そういう事態になる際にも、テープを操作する作業に携わってなければならないのでしょうか?
そういう人為的なことに構っているうちに、無為的なハタラキは過ぎ去っていってしまうでしょう。
それが、今生で有るか無いか分からないような、神縁と出会うことになるかも分からないのに...じっつにナンセンスなこったi
特定の教えやメソッドと関わらない有り様とは、こういうことを言っているのですi
それは全く、形も手順もなく、捉えることの出来ないものです。
とはいえ、最初からそんな掴みようのない話をしてても、取り付く島も無いということもあるでしょう。
だからして...ある教え、メソッドに則るということもあるのでしょう。
これはしかし、方便的な性格のものと言うべきものです。
方便とは自体が相対的なものであり、これを絶対視し、末葉末節的なことに囚われたら、相対次元を超えたものに開かれることは出来なくなるでしょう。
言い換えると、それは思念、思議、有識に囚われているということです。
方便というものには、そこを開き、超えて実見される、方便ならざるあるものの消息が隠されているものです。
意識がそちらに開かれるか、思念に取り込まれて閉ざしてしまうかで、その人の歩みは大きく変わったものになるでしょう。
私は五井先生には、この方便を超えたものの消息は伝えられていると感じております。
著書の中で、特に一連の"聖ケ丘講話"という、先生の口調の特徴などが出ており、より生の先生に近い姿に触れられるシリーズには随所にそうしたものが伺われます。
それを一言で言えば、"どんな思いであれ、神的なものに入れちゃいなさい..."、"思いが神の中にあれば、超えられる..."ということになるでしょうか?
これは、信者には随分と見受けられますが、諸々の思いに囚われ、自分の思いで自分を超えるというようなことでは無いはずのものです。
しかし、先生がめざしていた、広い、大衆に向けての真理の伝達には、そこには数多の、異なる層に渡る想念が、くんずほぐれずと渦巻いていた訳で、誰が如何ように導かれるかは一様でなかったということも事実でしょう。
私自身、その方便的なもの、それならざるもの共々に接して来た訳ですが、この歩みが果たして正しかったか、どうかは自分では分かりません。
ただ、私の道において最初にそれを切り開く縁となったのは、五井先生との出会いであったのは間違いないことなのです。
諸々の理屈、道理などを超えて、ずっと変わらず息づいているものは、その縁と共に私の中にはあるのです。
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五井先生のご登壇i

2019-11-21 03:25:21 | 人生の教師
私の精神的な歩みで、初めて主体的に関わることで(それ以前M教団に入信していたのですが、そういう関わりでは無かったということです)、影響を受けた方が五井先生でした。
初めて千葉県の市川市にあった、聖ケ丘道場に行ったのは、昭和52年晩秋の頃で、その日は奇しくも五井先生のお誕生祝賀会なのでした。
確か市川駅からバスに乗って、数分徒歩で道場に向かっていたのは、秋晴れの昼過ぎぐらいだと思ったのですが、何故か私の中ではずっと周囲が青色に染まった早朝というイメージが付きまとっているのです。
その行程が何か清々しい気持ちで一杯だったことが、そのように映し出していたのかも分かりません。
そして、"いよいよ五井先生とお目にかかれるのかi"という期待をもって、大勢の信者さんと共にその場にあって、隣からは「先生は体調が悪いので、ご登壇されないかもしれない」という、声も聞こえてきたのですが、私は"絶対に先生に会えるi"という確信をもって望んでいたのでした。
しかし、会が始まり、来賓の方や講師の先生、当時五井先生の後継者、現白光会の代表である昌美先生の話などが続き、大分待ちくたびれてきました。
又、その中で"五井先生は今世紀最大の聖者ですi"とか、やたらと先生を持ち上げる話にだんだん辟易させられたりしました。
特に青年部主宰による五井先生を讃える寸劇ときたら、もうクサイのなんの...こういうのは、M教団で散々見せられてもう沢山なのでした。
その後何度も、一年くらいは定期的に同場に行ってますが、こういう教団に特有の宗団心理におもねるような在り方に共感したことは一度もありません。
夕方近くになって、五井先生夫人Mさんの話があり、「いつも、人類の業を背負って苦しんでいる先生を見ているのがツラくて...」と、涙ながらに本心を吐露しているように見受けられて、私もついもらい泣きしてしまいました。
そして、ついに幕がパーっと開いて、実にクサイ演出だと思いましたが...ご登壇されたのですi
著書に載っている写真と違って、大分弱々しく見えたのにビックリしましたが、とにかく初めて実物の五井先生にお目にかかることが出来たのですi
そして、又確か「一寸今、しゃべれる状態じゃないのだけど、家内が一言とせがむので...」と、それこそ一言、二言内容は先の言葉以外は覚えてませんが、先生の肉声を聞くことが出来たのですi
この間私は涙でグショグショ...一時の感情かも分かりませんが、嬉しさや懐かしさやらが混じったものが込み上げてきて、さっきまでのクールな態度など吹き飛んでしまったのです。
覚えている限りでは、こういう形で先生にお目にかかったのは、あともう二回、肉声を聞いたのはあと一回だけだったと思います。
思えばこの初めての先生との出会いは実に貴重なことだったのです。
しかし、私にとり五井先生は既に雲の上の人だったと言わざるを得ません。
もし、もっとお元気だった頃、面と向かってお会いしていたら、先生の印象は違うものになっていたかもしれません。
こう書いてみて、思うことはただ著名な宗教家と実際に会ったということだけだったのかも分かりません。
私はやっぱりクールな性格で、その後この当時のような五井先生への帰依の感情も覚めてしまった訳でもあります。
でも、いつもこの時のあの早朝の周りが青みがかったような印象がずっと心の奥に残っているのです。
そして、その覚めた性格と相反するような、理屈なしに、ある方に惹き付けられてしまうという...それも一面には違い無いのです。
人生の局面には、見える景色は移り変わってしまうものだけど、その深部にはずっと変わらず息づいているものもある...40数年前を今に...そんなことをふと思わされております。
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有為、無為の際

2019-11-19 12:11:33 | 現臨、ハタラキ
私が、"神の手がかかる"、とか"現臨、神的なものに捉えられる"、というのは、思考機能や"為そう"とする、有為的な働きが後退してしまうような事態のことを言い表しているのですが、そうなるまでの間、考えようとしているのか、何かを為そうとしているのか、"じたばた"と無駄な抵抗をしているのか、この有為的なものと、無為的なものとの際に立たせられているプロセスというのもあるものです。
この間では、弱まりつつあっても、起こっていることに疑念を思ったり、解釈したりある程度思考を巡らすことも出来るのです。
そして、掴まったが最後、逃れる術が無くなるという、あの世にも恐ろしい(?i)魔の手から逃れることも可能なはずです。私は一度も試みたことはないですが...
30数年前、私が初めて"人生の裏側"に踏み入れた時の、その扉が開かれる直前のことはよく覚えています。
私はそれまで、自分のカルマというか、業想念というものが浄化され、無くならないと、神的なものとつながることは出来ない、という先入観を根強く持っていたのです。
といって、その業をどうとかしようと思っても、どうなるものでもありません。それを消し去る術が分かりません。
"自分を超えたもの、神的なものに依らなければ、ダメなのだ"、ということも観念的には思っているのですが、現実的には何も手がつかない状態だったのです。
しかし人間というものは、ご存知のように何かを考える、何かを為そうとする生き物ですね。
どっかで自分の思いで、その業想念を消し去ろうと、又そう出来ると思おうとしてしまうのです。
これは自分の思念、意念というものを過信している訳です。無理もありません。その限界、際というものを知らないのですから...
で、そんな私に唐突にああいうことが...これは何故、そうなったか?、多分その日の朝からの原因不明の発熱が起因していたのでしょうが...既に思考力、気力とも減退しているところへ、ヒタヒタと見えない何かが迫ってきたではありませんかi...
"それは、私の周囲を覆い初め、私の内部まで浸透しようとしている...これは魔の手か神の手か? 私は業想念をクリアしてないはずなのに、邪悪な霊にたぶらかされているのではあるまいか?"
しかし、こういう疑念を巡らせども、その迫りくるものは、その疑い、迷いを全く寄せ付けないものをもたらしていたのです。
"これは疑うことが出来ないのだi
愛、リアリティ、平安...疑えないi、信じられないi...こんなものは今生で出くわしたことがないi...知らなかったi
神、サタン...何であっても、どうなってもいい...思うことも、為すことも果ててしまっているのだi"
そこでは、疑うとか信じるとか、こちらの心的作用に纏わることはすべて超えられていたのです。
私はそれを"信じて"受け入れたのでも、自分からそれにゆだねることが"出来た"のでもないのです。
すべてあの御方が顕わになり、臨んだことでそうなったのです。
私の一切の疑念、迷いをうち破り、開いたものは、この圧倒的臨在の事態に他なりません。
一つ言えることは、その時にも示されたことですが、私は私の知らないところで、この邂逅を望んでいたということです。
しかし、先にこの見えざる導きにあって、残された自分の思念、意念を使ってそれから逃れることもあるいは可能などと言ってみましたが...
これは、そういう際に立たされた人間のことを言っているのですが、そんなことを目論むような愚かな人間は多分居ないでしょう。私は知りませんi 思いを超えた事態のことを示されて、そこから逃れようなど、ホントに度し難いことと言う他無いですから...
一度、神を知ったなら、もう受け入れざるを得ないのですi






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秋晴れと促し

2019-11-17 10:59:37 | 意識、照明
今日は文句なしの秋晴れですi
透き通るような青空、見上げていると吸い込まれそうになりそう...
アホなことを言うようですが、別段そういうことを信じようとしなくたってそうなっているのですi
それを受け入れるということは、そういうこと自体がバカバカしいほど、そのままだということですi
この抜けるような青空の事態を信じなければなりませんか?
認め、肯定し、受け入れなければなりませんか?
そのまんまのことに、"心の持ち方を何とかしましょう"だの、"暗い思いを手放して明るく持ちましょう"、だの何のかんのと付け加えようとすることは、一種の暴力を押し付けているようなものです。
多くの宗教、スピで説かれて来たのはそういうものばっか、だったのではないでしょうか?
"心の持ち方を変えねばならないi"、"ネガティブな思いを手放して、神と一つである自分を信じなければならないi"...中々そんな心境になれないのだけど、心が変わらなければ救われない、と刷り込まれているので、思おう、信じようとする...実際は思っている、信じているだけなのですが、ネガティブな変わらない思いはフタ閉めされたまま、心が変わったつもりになっているだけ...
この他、"自我があるから苦しいのです。しかし、自我というのは元々無いのですよ! 全体しか無いのですよi"
誰がそう決めつけたのでしょうか? 誰が誰にものを言っているのでしょうか?
青空を見ていて感じることは、そこに何かを付け足し、何か真理らしきもの、正しきものを切り取って、他に向けて何かを主張することが如何にバカバカしいことか、ということです。
かく在らしめられていることに何の理屈があろうかi
それを信じたり、肯定したりということもなく、"照らされているまま"だということです。
あまりにも、それまで何かに駆り立てられるように、信仰することに慣らされた人には、"ありのままを受け入れる"という意識付けも必要かもしれません。
なーんてこと言ったら、"ありのままを受け入れる行"をやり始める人も居るかもしれませんが(笑)...
ありのままという言葉が、"ありのままの境地に達しました"(笑)とか、何か特別なのことになってしまうほどありのままでないものはありませんi
自分がどんなにミジメだろうと、悪かろうと、おバカだろうと、ぶったおれていようと、そのままになっているのがありのまま...すべてが筒抜けに、吹きさらしになっているのがありのままです。
意識的になるとは、そのことを受け入れるということに他なりません。
これは自分の思念で何かを否定したり、肯定したりすることとは丸っきり違うことです。
受け入れることで、如何にその思念がありのままのものを見えなくさせて来たか、ということが分かり、同時に自分の思いで自分をどうとかしようという、無益な戦いを終わらせることにつながります。
又、こういうエラそうな物言いのことが、自分でテンデに分からなくなってしまうこともあるもので、それも受け入れざるを得ないのです。
あの"お照らし"の前にはホントに、ホントにどうしようもないことなのですi
こういうことはついこないだまで、とても書けない状態になっていたのですが、どうしようもないことなのですi
"ある促し"を受けちゃっているので...
"お前が神の国が来たようにリアルに感じられるようなことを書けi" と。
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もしも...の話

2019-11-15 11:59:41 | 雑感
もし、このまま"あの感じ"が戻ってこなかったとしたら...
そうなったら、そうなったらでしょうがないことですi
それが"思し召し"ということであれば...
しかし...
もしかしたら、例えば次のようにイメージして...
太陽の光に当たって、それに包まれているように、だんだんそれが体の奥まで浸透して行くように...セルフイメージング。
それで本当にあの"照らされている感じ"が戻るかも知れないし、戻らないかもしれません。
だけど...そういうイメージに頼る訳にはゆきませんi
今なら、やろうと思えば出来ないことも無いかもしれませんが、ついこないだまでだったら、ほとんど物理的に困難でした。
イメージを破って自動的に発現してしまうものがあったからです。"だんだん"と暗示にかけるようなことなどやってられなかったのです。
私はどこまでも"自分の思いを超えたものに依り頼み、それに導かれてきたのですi
それが命そのものだったのですi
それを自分の思い、イメージに取って代えようなんて沙汰は絶対に出来ませんi
しかし、その命を失ってしまっては、もはや...
このブログでもそれを主軸に表してきました。
でも、ここに飛車、角、いや王も居なくなってしまったとあれば...
あろうことか、ここ数日私が一寸信用を無くすようなことを書いたせいか、アクセス数が急速に落ちたし...
もとより、そんなウケのことはハナっから期待などせず、"自分を信じて下さい、信用して下さい!"ともアッピールなどしてこなかったですけど...でも自分自身の道としてもう、書き続ける意味も気力も出てこない状態とあれば...
だから...
そういうことを思って書いてみただけですi ちょんi
(いやあ、たら、レバどちらも大好物です)
私はたった今、"自分の思いを超えたものが私の命だi"と言ったのですi
"私はもう、オシマイだi"と思おうが、言おうが、そういう思いとは別にここに命として発現しているのです。そんなこた自分のイメージで作り出せるものじゃありませんi
こんなことを何で言えるかというと...何でだろ?
たゆまなく、キンキンと耳鳴りが鳴り響いているからだろうか? いつの間にかそうなったかはいちいち覚えちゃいませんi
"あの感じが戻ってこないならば"というのは、自分の思いに頼るなi、という逆説ですよi
"思し召し"ということも、"生かされている"という実感無しには出てこないものですよi
というようなことは、ついこないだまでの話?
じゃ、今は?
どうでもよくなっちゃいましたi






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