人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無くはないぞi

2019-11-13 10:48:46 | 雑感
"主よi あなたはどこにお隠れになったのですか?"

空はどんより日が差さない...冷たい雨が降りそう...
儚い命を懸命に紡んでいた、秋の虫の音も聞こえなくなってしまった...

体調は良くなったり、悪くなったりで、これが困るんです。今は大事を取って仕事は休んでいますが、休んでいた方がいいのか、動いていた方がいいのか...そして、体調は良くなったとしても、"あれ"は、開かれて来ませんi
そうそう、何かにすべてを見透されているような感じですか...ついこないだまで盛んに言っていた気がしますが、これが何のことやら...太古の昔の話のようにも思えてきます。
改めて思うことは、私は体感されていることを書いていた訳で、これが無いとどうしようもありません。
とにかく、"~の中に"という感じになってこないのです。
どうも、私の中にブロック(身体面が強い)があって、これがそれを妨げているようなのです。
あの感じは完全に失ってしまったのでしょうか?
もう、あの不可視の太陽は二度と照らさないのでしょうか?
"見えざる導師"にすっかり見離されてしまったのでしょうか?
そんなこたあ、無いでしょうi 無くはないi
奥の方で種火のようなもの、ある種の律動感みたいなものが息づいているのは感じられるのです。"すっからかん"って訳じゃ無いのです。
ただただ、顕わになってこないのです。要するに"パッ"とならない。
じゃ、どうしたらいいか? 祈るしかありません。
以前(といっても、ついこないだまでのことですが)のように、祈ろうと意識した途端"パッ"という訳には行きませんが(我ながら信じられないi)、神的なものに、その失地回復を祈るというよりも、神的なもののと共にあらんことを...と。
今はどういう訳にか"大患"に見舞われて、こういうハメに陥っている訳ですが、こういうことも決して無意味に起きたりしないようにも思えてきます。
与ること、与えられることは自分の何ものかによって得たり、所有したりするものではないことを改めて思わされています。
そして、又このブロックがどうなって、どう開かれて、"~の中に"という感じになってくるのか、ということも我のことながら興味のあることです。こういうことを書き表すということも大変意味のあることでしょう。
その辺のことも追々、綴ってみたいと思います。

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兆しがちらほらと...

2019-11-11 11:26:47 | 独語
"ブーン、ブーン"
聴こえてくるのはこれだけ...
あの"きん、きん"は、どこへ行ってしまったのだろう...
おもーく、ニブイ音...中に浸透してくる感じが少しもしてこない...
地下鉄に乗っている時でも、暴風雨の中にあっても消されることがなかったのに...

現臨..."じんじん"ともたげてくるもの...
そのものにあって現存在らしめるもの...
はて?...一体何のことだろ?
ヤツは一体どっから、そんな実存哲学みたいなものをひねり出してきたんだろ?
なーに、現存って?
"意識が自ずとある中心に収斂するところがそれだi"
"ある中心"ってどこだ? 脳ミソか? 心臓か?
自ずとって...んなもん、なる訳ないだろi
何だか、胃の辺りがチクチクしてきた...

ああ、重い...
病苦は越しても、まだまだこの重さからは抜けられていないのだi
シモーヌ.ウェイユが言っていたように、どんどん下へ下へと向かわされて行くよう...
恩寵だけはこの重力の法則から免れているとか...
このままではダメだi 変わらなければi
"変わろうとしなくても、変えせしむるものがある"、だと...
無いぞi
"ゆだねられるものがあるから、ゆだねられる"、だと...
無いぞi

ヤツは一体どういう人間なんだi
よくもまあ、平然とぶっ飛んだことを吹きまくっていたものだi
"何でこういうことがパッと開かれるかというと、それはごく自然な状態だからでしょう"...って、おいおい...
何でこの世はパッと地上天国にならないんだよi

ヤツは本当にオメデタイ人間なんだi
いつの間にか、そうなった、と言うから根っからの寵児なのかもしれない...
それだけに"本当"の人間が背負ってる重みとか痛みとかが分からないのかもしれない...
ヤツがどんなにヘタレでも、絶対ヘタりようのないものにあって、ヘタレてたんだけどね...
これじゃ、どんだけミジメなヘタレなんだよi
オメデタイことだよ...

こんな何日も絶たれた状態が続いたことは何年もなかったi
これはこれで驚くべきことなのか!
そんなこんなで
"書いている最中にも...アリアリと"、って言うから...
書いてるんだけどね...
何か兆しがちらほらと...

あれ...もしや?
いや、"りん、りん"だったか?
今年の秋の虫は、いつまでも健気に鳴き続けているようだ...




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塊が解けたi

2019-11-10 10:49:57 | 雑感
前回、"こうして連々とブログを書いているくらいなんだから、風邪の症状など大したこたない..."なーんてこと書いたりしたんですが...その後がもう大変なことに...近年に無い"大患"に見舞われてしまったのですi
一昨日の夕方からほぼ24時間、半睡状態というか、ずっと微睡みの中を意識がさ迷っているだけなのでした。
その間、食べたものといったらバナナ数本だけ...
その覚束ない頭の中で次のように反芻していたことがありました。
"ああ、どうにかならないのか、この我の、業の塊...詰まる、滞る、出てこない、解けない...これがすべての苦しみ..."
これは、鼻水、痰が詰まったり、絡んだり、呼吸器系を中心として身体の凝った、張った状態のことを言っているのです。
こういう時が発熱が続いたりしてもっとも苦しい時なのです。
"早く、救世主、流動人間現れないかなあ..."
その苦しみもある実感と共に終息に向かいます。
これは、もう本当に"解けた、通った"ということがアリアリと体感されることなのです。
そして、こうした詰まった、滞った状態というのが如何に不自然な、不健康なことかということが分かります。
身体のことは勿論、精神のことについても...

"そうならないためには、細かいことをくよくよしないで、気持ちを明るくするんです。心がけを変えないと行けませんi 行いを正さなければなりませんi"
そんな風に、自分で自分をどうにかしようと思っても、あの"塊"はどうともなりゃしませんi
変えないといけない、正さないといけないと、思おうとすることで新たな苦しみを作り出してしまうのではありませんか?
いや、もうとにかく心身がしんどくなってる時というのは、こういう"小言"みたいなことがただただうっとおしいだけなのです。
小智をひねくり出そうにも、そういう思考機能が働かなくなったらどうするのか?
宇宙の法則が分かったからといって、あの塊が動いてくれるのか?
人間のありのままの姿というのは、こういう時に現されるのではないでしょうか?
どんなに変えようとしてみても、変わらんものは変わらないi
しかし...変わる時は変わるi
変えさせてくれるものがあるi 解かすもの、通らせるものがあるi
生命のたゆまない生成...ただそれにゆだねるのみ..."ゆだねる"ということの意味は、そういうものにあって初めて分かることなのです。そうせざるを得ないということなのですから...

てな訳で、日頃書かされていることが、体感をもって知らされている次第なのです。
症状の方は..."大したことない"とはもう書くまい...。

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風邪と記憶

2019-11-08 12:00:46 | 雑感
今、風邪でダウンしています。
年に一、二度こういうことがあるのですが、昨日、治りかけたものと勝手に判断して、一寸無理をしたら前より悪くなってしまいました。
それでも家で寝てなど居られません。井上尚哉のWBSS決勝は石にかじりついてでも見なきゃあ...
しかし、過去風邪でダウンした時に観た試合というのは、覚えているのは小2の時の、"名刀ムラマサ"関光徳がキューバの殺人パンチャー、S.ラモスに為すすべなく敗れた試合、大学4年の時の、"KO仕掛人"ロイヤル小林が、全勝全KOのプエルトリコのW.ゴメスに、空中遊泳させられたことなど惨憺たる結果で、何だかイヤな予感が過ったものなのでしたが...
果たして..."え、目尻をカットi...クリーンヒットで大きく顔を歪めてしまったi...ぐらついたあ、必死にクリンチ...パンチ入ってるのに、何故今までの相手のように倒れてくれないのだろう"...初めて観るシーンの連続で、夢でも見てるんじゃないかと思ったものです。
しかし、考えてみれば、今までこういう苦戦の展開が無かったというのが不思議なことで、これがフツーのことなのでしょう。
モンスターと言えど人の子だったということが分かりました。何故チャンスで倒しに行かなかったのだろう?、という疑問は残りましたが、何より優勝して良かったですね。
しかし...一向に体調はすぐれず...。

耳鳴りはいつもの"キンキン"したやつじゃなくて、"ブンブン"と空調の音みたいな鈍重な感じなのが続いています。
時々"どしん"とうんと圧力がかかったようなのが混じったりします。
それにしても、風邪でダウンした時の記憶というのは、結構覚えているものですね。
ホントにしんどかったことというのは、それほどでも無いのですが、この理由はどうも、思考力が鈍ってきて、何もやることが出来ず、否応なしに"自分と向き合わせられざるを得ない"からだと思います。
いや、向き合おうと思ってそうする訳じゃないので、この意味合いはただ床の中に自分を預けるしかないようなことです。
言い換えると、これが日常と異なって、より意識的にさせられているようなことなのです。
こういう意識状態が、過去、現在の時間感覚を超えて"身に覚えている"ようにも感じられてくるのでしょう。
そして、特に快方に向かってくる時の、あのむくむくと生命力が回復されるてくる感じ、又浄化のプロセスの、その例えようの無い、爽快感...
こういうのは、健常な状態では絶対に味わうことが出来ません。
何だか人生というのは、こうした状態の一つながりのようにも思えてきます。
少なくとも、人生の基底部分にはこうしたものが息づいていることが知られるのです。

おや、こうして書いているうちに、というか試運転のはずが、結構書いちゃってますねえ...
しんどそうでも、こりゃ大したこたなさそうです。ただ長いです。かれこれ5日間にも及びます。
皆さんもこのシツコイ風邪にはくれぐれもお気をつけ下さい。
引いたら引いたで別の楽しみもありますねどね...。
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ここから開かれた

2019-11-05 12:00:30 | 雑感
昭和52年の晩秋の頃、私は五井先生の「愛すること」という本を読んでいた時、どこをどう読んでいてそうなったかは定かでないのですが、思わず涙が止めどなく流れて来てしまったことがありました。
何か神の愛というものに触れたようなのです。
"すべてはここから開かれたi" これが私の精神的な歩みの原点と言ってもいいでしょう。
とてもドライな性格の私のそれまでの人生で、そういうことは無かったし、考えられないことだったのです。
これはただ単に本を読んで感激した、というだけのことのようで、私自身当時はそう思っていたものですが、なんであれ、それは思いも寄らないこと、すなわち思いを超えたものに触れたということに違いないのです。
そんな心境になどなろうとしたってなれるものじゃありません。どんなに修行を積んだとしても...
そして、それはすべての理屈を超えた事態なのです。
"もっと理性的な判断が必要だi"、という頭からの声も聞こえて来そうですが、理性的な判断ではけっして与ることは出来ないことなのです。
何が善で、何が真理だといくら考えても分からないことですが、それは文句なしに"イイコト"に決まってるじゃないですか?
愛と平安に与っているということなのですから...
これは、例えば五井先生を信奉し、"「世界平和の祈り」を称え、広めて行こう"、ということとは直接関係無いことです。
~のために、といったことが介在してくると、その"初めの愛"から外れてしまうでしょう。
この他、もっと役に立つ道とかもっと上の段階、究極の境地を目指すことに目が眩むとか...

"何という愚かなことだろう...
そうやって、この絶対的に"イイコト"から踏み外してしまうことは...
頭の中の異神の声に従って、あなたのハートからの真の神の声を遮ってしまうことは..."

実は先のような経験というのは、神、現臨に捉えられることの端緒になっていることが知られるのです。
それは、理屈抜きに惹かれてやまないことが高じて起こるようなことなのですから...
もう、そうなると、あれか、これかと選択する余地など無くなります。
ただ、あなたの真の神にゆだねる他に道はありません。
ですから、思われた自己からは何も始まってこないのです。

見ている景色は様々に移り変われども、ずっと変わらず活き続けている、ただ一つのもの...
思えば、私には修業生活などは無縁でしたが、ここに立ち返るということがあるばかりだったようなのです。
そういう意味では、ちっとも進歩などもなく、何処にも到達して居なかったとも思えるのです。
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