人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛が在る

2020-10-22 11:54:37 | 
私が書いていることはとても難しいと言われます。
ごもっともなことです。
私の偏屈で、独りよがりな性格がそのまま表れ出ているのでしょう。
理屈っぽく説明しようとすると余計何が何だか分からなくなりそうです。
今までにも、様々なことを色んな角度から、ぐだぐだと書いてきたのですが....
ホントにホントーに大切なことって、沢山あったらオカシイのです。
たった一つのことで足りちゃうかもしれません。
だけどそのように言い表せないんですよね。一つのことを言うと、全体のことになったりして...あ"ー、ややこし...
"ホントに大切なこと"、ということ自体が私の独りよがりなのかもしれませんが、これは少なくとも私が生きる上で"このことさえあればi"、といつも感じていることなのです。
そう、これは理屈じゃなく、今までそういう風に、難しそうに書いたものであっても、これは極めて感覚的なことなのです。
どういうことかと言うと...もう、一番最初の記事で書いているようなことです。
夕日が美しい、秋の虫の声が心地よい、いい音楽だ...
多くの人はその対象とされる、夕日、秋の虫、音楽などにばかり意識が行ってしまうものですが、そう感じているあなたが居なければ、そういう境地は生まれないということです。(こういうことが"人生の裏側"の入口なのですi)
好きなもの、愛している人がいる...そう感じているあなたが居なければ、その対象はただのもの、人間にすぎません。
又、片思い、実らない愛というものには、愛というものは無いのでしょうか? そんなバカなことは無いi(愛が蒸発したようなことになったら知らないが)...私には何十年も誰かを愛していない日など、ただの一度だってありませんi
こういう風に感じられて、幸福でない訳が無いのです。
幸福に感じられるということは、そう感じている自分自身を受け入れていることに他なりません。
自分自身を受け入れられなければ、たとえどんなに境遇が恵まれていても幸福になれません。
もっと言えば、そのような幸福感、そう感じている自己を在らしめているものがある、ということです。
一言で言えば、そこには"愛が在る"、ということになるでしょうか?
この一言で、すべてを言ったことになるでしょうか?
後は、一つですべてである皆さんでどうか感じてみて下さい...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狼人間のロンドーWerewolf Of Rondoー

2020-10-20 10:08:36 | 詩的文章
満月が出た...
あの淡い、妖しい光が世界を分ける
人間と獣を
善と悪を
天国と地獄を...
こうして考えていられるのも時間の問題...
理性を失っちまったら、何もない
気がついたら又この手が、この口が、
生き血にまみれているのだろうか?

俺はただ本能の赴くままに生きてみたかった...
善き市民、賢き学者...誰のための名声、勤勉、モラル...
もう、能面を被ったように生きるのはまっぴらだi
何が先祖か分からないが...血が血を呼ぶんだi
俺には赤い血が流れているんだi

あの娘が来た...
さっき、まだ明るい頃
"どうか、お兄さんに良いことがありますように"
って、言って別れた、キレカワなあの娘...
抜群のプロポーション
もう、我慢が出来ないi
抱きつきたいi
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅーっと...
何がそう感じさせるのか?
俺の理性のダムは決壊しちまったi
それから...
それから?...う"~っ...くそっ!
黙らせようか...(お前もだぞi)
人の目など気にならないが、
みんな黙っててほしい...
血が沸き、肉が踊る...
踊るんだ...ブレイクがかかるまで...
あれこれ言いたがる、人間てヤツにゃわからない
そして、もし、彼女を永遠に失うのなら...
俺は黙って消えるしかないだろう...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の終わりに聞く言葉

2020-10-18 09:21:13 | 雑感
"あれは偽物、こっちが本物、真実はこうだ、そういうのは今だしのもので、究極はこういうのだi..."
一体、誰が誰にもの言ってるんだか...こういう言い回しの言葉には眉に唾をつけてみたくなります。
聞いてくれる、受け入れてくれる人間を想定して、そう言うのでしょう。まあ、他に向けて何かを発信するということは、多少なりともそういうことなんでしょうけど、とにかく"私はかく主張したい"、というものが強く伝わってきます。
だけど、人には人の考え方、感じ方、モノサシってものがあるのです。"これが本物だ、真実だ、究極の何チャラだ、なんて言われても...
所詮は、赤の他人がそう言っているだけじゃないですか?
聞かされる方は、あっちはこっちが本物だ、あっちはこっちこそ究極の真実だ"、何て言ってて、迷わされるばかりじゃないですか?
そもそも、一体究極ってどういうことだと思われますか?
あれこれ考えてて迷っている時や、究極らしいことが知りたければ、一度"もし、世の中から考えるということが無くなったら、どうなるだろうか?"、と想像してみたらいいです。
考えることが出来ないってことは、どうしようもないことなのです。信じることも、疑うことも出来ないのですよi
これを"究極"と言ってもいいかもしれません。
もし、この世の終わりってものがあるとすれば、そういうものなのかもしれません。
この世というものは、自分も含めたその他大勢のものが"この世というものは、こういうものだ"、と思っているものが反映されて生まれたもの、という部分が大きいですから...
しかし、考えること、思考機能が失ったとしても、感じることは出来るのです。"あー、考えられんi"と...
言い換えると、考えることは出来なくても、意識する(させられる)ことは出来るのです。
そんな状態で、誰かが言っていたことや、日頃信じている大先生やバイブルの教えや、高次元とか完全覚醒とか空想していたことの、一体何が伝わるでしょうか?
すべて観念の所産だった、ということが示されるだけではないでしょうか?
私はいつも"自分自身に意識を向けることが大切"、ということを言っています。
そこでは、それ以外に向けることは出来ないのですi...自分以外の誰のことも、世の中のことも意識の外に追いやられてしまうのですi
すべての思考が消えた中で、なおもそこに何かが開かれているのでしょうか?
意識が開かれていたならば、それを感じることが出来るでしょう。それが見えない導きとなるでしょう。

こういうことは、数千年前、釈迦が言っていたことなのです。
"自分自身を灯火としなさい、見えない命、法(ダンマ)を灯火としなさい"、と。
この言葉は、あなたの心の奥に届いているでしょうか?
この言葉は、この世の終わりに聞こえてくるでしょうか?
すべてはあなた次第です。誰もあなたの代わりに生きてはくれないi

終わりに向き合って、この世を生きるものは幸いなり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識の動き

2020-10-17 09:57:49 | 意識、照明
"意識を向ける...いや、向いちゃう"
と...こう、いつも微妙な言い回しをいつもしている訳ですが、これはもう、私が書いていることのほとんどがこういうことになってしまうのです。
自動詞で書いているものが他動詞に転化してしまう...これは、表層的な思考の領域と、その奥に隠れた純粋意識というべき領域との関係を言い表しているに他ならないのです。
意識をある一点に集中する~自ずと意識が収斂されてくる...
自分自身を見つめてみる~自己観察とされるものが、自己の方が観察されるもの、照明が当てられるものに取って代えられる...
こういう風に書けば分かりやすいと思うのですが、これは私の場合、能動的に意念を働かせて、あることに取り組んでいけば、そのうち他動的に、無為的な方に転化して行く、ということを言っている訳ではありません。
これは、スイッチを押すと電気が付くというようなことよりも、もっと即性をもった転化の様態のことを言っているのです。(といって、全く受動的、何もしない、懐手のままでいい、という訳でも無いから...要するに微妙なんです)
あえて、能動的な部分を働かす、と言えるのは...ただ、そのことを"意識する"、というだけでしょうか...(いや、そのことすら"意識させられちゃった"部分もあるくらいです)
もう、それだけで自動的に意識のそのような動きが始まるのです。
そう、意識が動き、流れ出すのです。これは、言うまでもないことですが、主我的な私の意のままにコントロールすることとは全く違います。
むしろ、その逆で主我的な思いは後退し、その意識の動きに従う、というか化されてゆくのです。
あることで迷っていて、例えば精神的な道で、Aという教えとBという教えがあり、どちらを選択するか、という場合、あれこれ考えるのをやめて"あれ"を意識してみる...するとどっちかに意識が動き、集まってきたりする...して、自ずとそっちに赴く...
こういう風なことを、"意識を当ててみる"、などと言う向きもあるのですが、先の如く、"当てられる、当たってくる"という方がピッタリするのです。
これは、"見えない導き"というものの一端なのですが、意識が集まるところに愛、平安、リアリティがある、と言ってもいいのです。
"あれ"というのは、その...何だろう? "そう意識したらああなる"、という風に身に覚えられているもののことです。
"意識が向けられる、向いちゃう"、というのはそういうものがあるからなのです。...何にしても語るだに微妙なことに違いありません。
と、まあ普段当たり前のようになっていることを書いてみたのですが、客観的になり得ないようなことを、分かりやすく客観的に書いてみたのですが、余計訳が分からなくなったかもしれません...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

"マ"がある

2020-10-14 11:56:17 | 哲学・思想
私は生来、わがママで、主我的な思いの強さが抜けきれない人間です。
多分、一生このママでしょうから、性格の改善などのことは、とっくに諦めています。
ところが...そんな自分はそのママで、いつしか自ずとその主我的な自分が後退してしまうようなことに毎日のようになってしまうのです。 "じんじん"と"あのもの"が臨んでくることで...。
"現臨にある"、ということは、このようにそのものの方が主体的になり、この思われた私は後退してしまうことに他なりません。
それでは、私と感じている、この私はボカされて行くのでしょうか?
とんでもありませんi そのようになっている私の方がずーっと本来の自分、私らしい私で居られるのです。
では、自分で言うのもおかしいですが、私とは一体何が生きているのでしょうか?
この一コの肉体をまとった、あれこれ考えている自分は何なのでしょう?
少なくとも、それが"すべての私"であるとは、もはや思えない、感じられなくなってしまった、とは言えるのです。
"現臨にある"、というのは、そういう意識状態のことを言っているのですが、もっと感性に訴えるような表現で言えば...~マ、表現出来ないものでありますが~
そこには"マ"がある、"マ"が生きていると言わんか... マあ、一寸感性を働かせて、"マ"というヒビキから何かを感じ取ってみて下さい。
そこに、真、マコトなるものが感じられる...そこには又"間"というものが感じられます。
思われた自分の内側、外側の間、時と場の間、個と普遍の間、神と人間の間、見えるものと見えないものの間、表側と裏側の間...つないでいるもの... 又、人と人との間に"マ"が生まれることで、愛、調和がもたらされるでしょう。
これによって主我的に"私が..."、と出たがる線が抑えられる...短絡的に事物に囚われることで、"マ"に到らないハメにならないような間が生まれる... この"マ"の方が生きてハタライている...顕わになっている...それにうち任すのみ...ママに...。
"目の当たりにする"とは、私がよく使う表現ですが、どういうことなのかは説明出来ないのです。
説明、理屈ごとにしたら、多分"マ違う"でしょう。各々が"マの当たり"にするっきゃならないものでしょう。
"マ"にあることは、二つ別々に切り離されているものでも、いっしょくたになってるものでもありません。
"一つになる"、ということは、より本質的には"マ"にあるということなのでしょう。(そんな文例などありませんが...)
私はどうも段々、"マ"と一つになって行く感じを覚えているのですが、そのうち個我意識が消滅してしまうのかしらん...
マ、何事も、ママに...です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする