人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の愛は失われていない!

2022-11-21 08:20:10 | 
人の世は、いいこと、幸福なことも、いやな、つらい不幸なこともある...
これは多くの場合、他動的に起こる運命のようなものと結び付けてそう感じているのではないでしょうか?
しかし、”自分が自分自身としてここに在る、生きている”、ということを意識してみたら、そうしたものに左右されない、常住の何かを(抽象的なものでなく具体的に)身に覚えるように感じられると思います。”ああ、幸福だなあ!...”と!
それは、有頂天になって、”うれしーっ!”、というものじゃなくて、幸福がじわじわと染み込んで来るようにも...
そうです、それで不幸な訳が無いのです!...これは、つまりああなんだ!、サットチットアーナンダ(サンスクリット語。”自分が在ることに意識したら幸福”というような意味)です!
愛から見放されているような私の人生でも、元々愛されていたのを感じずにおれません!
神的なものに...神の愛。
私は悟ったように、本当にいつもいつも感じてる訳じゃないし、こないだのように突如感じなくなってしまうこともあるのです。
ということは、それは私のものじゃない!、神から来るということなのです。
しかし、ああなってみて改めて分かる!...これはとてつもないことなんだ、と!...片鱗に与っているだけでも分かります。
みんなが皆、(私と違って中途半端でなく)これに与ったらどういうことになるだろうか?!
戦争なんてやってる場合じゃないですよ!、他から奪い、独占しようとする、犯罪につながる衝動が無くなる...貧富の差も(幸福は持てるものの多寡に左右されない)...
そして現実に目を向ければ...この世は暗がりの世、神と人が分離されている世界。
このことが端的に、具体的にどういう感覚として示されているかというと、元々与えられている愛が感じられなくなった、ということでしょう。
旧約聖書でも日本神話でも、世界中の神話、伝説で太古の昔、神と人は一体だったことを伝えています。
しかし、私は多くその国の王の起源とされる、人間の上に君臨し支配する神という概念が生まれた時、神人の分離は既に起きていたように感じています。
神の愛は、上も下も、中も外も遍在しているものでしょう?
愛は失うもの、といいます。それは得るものと裏表のようなものです。
おかしな言い方ですが、神的な愛を失ったので、そのように感じて来るのでしょう。
しかし、本当に失ってしまったら、その愛する者のことを思うことすら出来なくなると思いますよ!
それを失ったら何にも愛することなど出来ないのです!
失うものは、得るものでなくて回復するものではないでしょうか?
何にも無いものは、回復出来ません!
分離したものは、再び結ばれる。
それは、全くもって”失った、分離した”、という思いを超えてそうなるのです!




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自分を信じ、自分を愛す

2022-11-20 09:46:28 | 宗教
最近、旧統一教会問題絡みで、又”マインドコントロール“という言葉を毎日のように聞くようになりました。かつてのオウム真理教の時といい、宗教の問題には付きものですね。
これは、自分の外からの洗脳というものと結び付く訳ですが、直接そういうものを介さずとも自ら能動的にハマってしまう、盲信、妄信、狂信につながる道もあるのです。
それも、そういう教えなりが影響している訳で、間接的に洗脳されていると言ってもいいでしょう。
世間では、宗教と言えば”信じること“が大前提のように思われているようで、多少なりともそういうことにつながる要素はあると言えるでしょう。
だけど、そこにはもっと大前提となるものが蔑ろにされているのではありませんか!
これは、宗教に限ったことじゃないですが、それを信じるのは誰の問題なのか?、その人生は誰が生きているのか?、ということなのです。言うまでもなく自分自身ですね。
自分を信じることが出来ない!、だから他人の言説にハマってしまうのです。
自分を受け入れられない、愛せない...本当は自分を信じていなければ、人も神も信じられないはずです。
それは、そもそも何を信じ、受け入れ、愛するか分からないということなのだから...
人が生きるということの大前提は、“私はここに在る”と感じていることのはずでしょう?
自分が在る(”居る“とは、微妙にニュアンスは違うのです)から、他を信じられるのです。
他人の言葉を迂闊に信じない、ハマらない、ということは、自分で考えることが出来るということでは一応あります。
でも、それだけじゃない!...自分の思いを超えて、何か自分の中から照らしているようなもの...それに照らして、その言葉を信じるか、そうでないかが識別されるのです。
それは前者の場合、共感、共鳴という形で示されるのが普通でしょう。心に響くものがそこにあるのか!
私は現臨感が芽生えてから、自然とこうした感覚を覚えるようになり、オカルト的なこととか不確かな情報を短絡的に信じることが無くなりました。
もっとリアルな...そして自分の中に愛というものがあるのが感じられたからです。それからズレた、知的好奇心を満足させるだけのものには、意識が向かないから...
”自分を愛す”と言えば、五井先生の信者にも、狂信者というのは居るものです。
私が頻繁に道場に通って居た頃は、ほとんど見受けられなかったですが...
しかし、その先生当人は「一番最初に言いたいことは、神を信ずるとか、五井先生を信ずるとかいうより先に、自分自身を信ずることなんです」と教えているのですよ!
中には何が楽しいのか、それに縛られている人間もおりますが、その教義の中に「自分を愛す」という言葉があるのは、素晴らしいことだと思います。
私には、そこに向ける対象は無くとも、自分の中に元々ある”愛そのもの”につながることが示されているのを感じずにおれません。
我々の未来はそのことにかかっていると言っても過言ではないでしょう!
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自分の胸に聞いてみる

2022-11-19 10:18:41 | 求道、探究
自分のことというのは、本当の自分が何かも普通は分からないのだし、本心のことも中々分からないものです。
この一週間というもの、突然いつも当たり前に感じていたものが感じられなくなったりして、そのことを痛感させられました。
電波障害か何かで、ネットなどが開かなくなるように、パッといかないことがあったようです。
改めて、私がいつも書いていることは、実に感覚的なことだということが分かりました。読まされる方には中々伝わらないだろうな、と思います。
本心が何かは分からないが、自ずと意識が向いちゃうということがあるんだ、とか...
“ほれ、もう私と別の何かってんじゃなくて、それはここにあるものなのーっ!“、と言っても...
これは、意識はそのように具体的に感じられるものとつながる、ということを言っています。
それは、胸、ハートの辺りに鎮まっているように感じられる何かです。(これなんだ!)
“開かれる“、なんてテキトーに言ってましたが、具体的に言うと、その辺りが開かれるということのようです。
といって、その辺りのチャクラの話をしている訳じゃありません。具体的に...でもトラワレちゃいけない!...こういうこと言ってるから中々伝わらない?
ハートのチャクラに意識を集中しよう(否定している訳ではないが...)とか思っているのは、頭の方ではないのか?
精神的な道では、これが感じられないと、本筋でないような情報に迷い、飛びついてしまうのです。
何十年後には地球の人口は半分になるとか、何かの陰謀論とか...そんなもの本心から信じ、受け入れているのでしょうか?...そうだ!、自分の胸に手を当てて聞いてみたらいい!
頭にばかり意識が向いてしまって、不確かな情報を事実だと思い込んでいるのでしょうが、本心に照らせば、それが事実だろうと、そうでなかろうとどっちでもいいことなんじゃないですか?
たとえ、世界が破滅しようと、悪魔に支配されようと、愛が、神の愛があればいい!
自分の中に息づいている愛が感じられないと、諸々の思念に迷ってしまうのです。
いや、しかし...感じられないこともありますよ!
私はどうやって復旧したのかが、いつの間にかなので分からないのですが...やっぱり祈っていたということはあるのです。
祈るということは、頭で祈るんじゃない!、私は感じられない、分からない、ということを素直に受け入れることです。
受け入れるということは、思いを超えたものを受け入れることに他なりません。
そして、それが開かれて来るまでは頭を先走らせて、落ち着きなく、本筋でない教説などにトラワレたり、決めつけたりしないこと。
とにかく、迷ったら、何かが滞ってるように感じたら、自分の胸に聞いてみる...
最善、最愛のものは、それにトラワレるのでなく、捉えられて分かる!...つまりはそこに落ち着くということです。逆説的ながらそれが本心だろうと、なかろうとどっちでもいいでしょう。
所詮、そういうのは考えごとでしょうから...
“感じられなく、分からなくなっちまったあ!”、というのも多分?

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祈りモードに入ると...

2022-11-17 09:28:26 | 祈りと瞑想
“意識を向ければ、パッと...“、なんて何回も言ってますが、捉え所が無くて何のことやら分からない人も多いことでしょう?
実は、そこには具体的で肝心なことがありまして、言い忘れてる訳でもないのですが、何十年も当たり前過ぎて気が付かなかったのです。
それが最近、いつもの“き~ん“という耳鳴りが聞こえなくなったので、そっちを意識してみたら、やっぱり当たり前に起こっていた次第で!...つまりはなんてこた無かったのです(笑)。
それは、どういうものかと言うと...意識を向けるというのは、神的なものに向けるということで、言わば意識が祈りモードになる訳ですが、すると必ず(!)、身体に、特に首のつけ根のあたりにある種の引きつれというか、震えみたいなのが起こるのです。
身体というか、もう精神と分けられない感じにすぐなってしまうのですが、“心身“が凝縮してゆく感じです。
同時に意識がある中心に収斂されてゆく感じになります。
それともう一つは、けっこう長めの“すふ~っ“という吐く一息です。
これは、日常生活ではこの時以外はまず出ません!
これらのことがある神的な波動を受け、それが通る時のシルシみたいなものなのです。(といって、トラワレちゃ、ダメですよ!)
言うまでもなく、これらのことは、意志想念で為そうとして行うことでなく、自ずから起こることなのです。
私だけでなく、気功などに親しんでいる人には割と知られているのではないですか?
何かで読んだ記憶もありますが、最初は人為的な意志で、あるやり方でそういうものを誘起させているものが、次第に無為的なものに移行するようになる、とか書かれていたと思います。
“体が勝手に“...なんて何やら神秘めかしてますが、少し前書いた“耳鳴り秘伝?“同様、どうか参考程度にして、興味本位で無闇にやらないで(やろうとしてもやれないかも?)下さいね!、ヘンなとばっちり(?)受けたくないですから...(最初から書かなきゃいい?...いや私自身の備忘録としての意味合いもありまして!...)
私の場合、それは瞑想と区別が付かないながらも、祈り...決まった言葉、形の無い祈りの一環としてそういうものがある、ということなのです。
祈りモードに入るということは、思いを超えたものへの畏敬の心持ちになるということです。
それも又、当たり前のようにそうなることなんですが...
それは、精神的な道ではあり勝ちな、オカシナことに陥らないないための最大の防御でもあります。
祈らざるを得ない。“祈るしかない!“ということは、上よりの命令でも義務でもありません!
優しい、自ずからなる促しなのです。
これを蔑ろにすると、コワイですよ!
上よりのおとがめ?...いや、そうじゃない!...祈りモードからズレるのがコワイ!
だから...“祈るしかない!“のです!
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遠い振動

2022-11-15 10:36:52 | 詩的文章
一週間前、月はいつも見てるようじゃなかった...
赤いべールで覆われているようだった...
数日して、大事なものを失う夢を立て続けに見た...
カギ、自転車...
何かをやり忘れる夢も見たのだったが... 何だっただろう...

無くなった!、感じられない!、パッとならない!
いつもこんなじゃなかった!
いつも?
あんなことがいつも? いつもに戻った?
取り戻さなければ!... どうやって?
そんなにカツカツせんでも!
なんだろう?、この諦観みたいなもの!
無ければしょうがない! 感じなければしょうがない! ならなければしょうがない!
現実は受け入れなきゃ!

無くなった! あったものが無くなった!
それとも、あるものが無くなったのか?
無くなったように思っているだけか?
なんだろう!、このズシンとした地響きのようなもの...
遠くの方で振動が起きているような...
いつもは感じたことが無かった!
いつもは?... これが響いているのか?

昨夕、地震があった!
震源地から遠いところがかなり揺れた!
異常震域だって...
地の底では、どうつながっているのか分からない...
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