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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

道具

2021年08月23日 07時31分15秒 | 意識論関連

資本主義という制度手続き自体は所詮「道具」に過ぎない

道具ということは たとえば包丁を料理に使うか 通り魔に使うかで結果は大きく異なる

資本を何に どう用いるのかで結果は大きく異なる

利己的利益だけを追求し 社会安全性や持続可能性への配慮を怠れば 社会破綻への道に暴走することになるが

最初から社会安全性や持続可能性のために資本を用いれば 社会の破綻は避けることができる可能性も出てくる

道具を使う「ヒト」の問題 「ヒト」の人間性や倫理性いかんによって 結果は著しく異なるのであって

どの道具を選ぶのかを議論しても あまり意味はない

何の道具であっても危険性は存在するものであって 包丁が危険だから使用を全面的に禁止しておけば安全だという話にはならない

資本主義という道具の危険性を認識し 安全に運用するためには 運用する「ヒト」の人間性が最も根源的な問題なのである

 

「経済」とは 本来は「経世済民(世の中を通じて民衆を救済する)」の略であって 利己的金儲けのことではない

地球環境に適した人口を遥かに超えている現状からは 明らかに生産性の総量は減らさざるを得ない

地球環境を破壊してまで利益追求を続ければ 破綻は免れない以上 これからの時代は限られた生産量の中で いかに効率良く分配するのかを優先しなければならないのであって 「利己的利益さえ追求しとけば社会全体が潤う」などというアダム・スミスの「見えざる神の手」妄想を鵜呑みにしている場合ではない

「見えない何かに誘導されているから 自分は何も考えずに欲望のままに行動しておけば良いんだな」的に 都合の良い身勝手な解釈をすることによって ヒトはバカに陥り 暴走破綻への道を変えることが出来なくなるのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の人気も 悟性だの純粋統覚だの叡智界といった「絶対に知覚することができない」という実証不能の謎の観念を鵜呑みにしておけば 大衆や「哲学者」共は安心満足し その内容がただのファンタジーで 哲学でも何でもないことには誰も気づかなくなる

バカは 何が真実なのかが見えない

見ようともしない

「見たくない」のである

カルト宗教にのめり込んでいる信者に対して 「お前が信じている教祖はキチガイだぞ」と教えても拒絶反応しかしないのと同じ心理構造によって バカはバカが治らない

ヒトは 「信じたくない」話は理解したがらない

 

 


Ende;

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死者の数

2021年08月23日 06時22分49秒 | 意識論関連

トロッコ問題における選択において 「何人死ぬか」は倫理とは無関係である

どちらを選択しても基本的に当人の責任問題には一切ならないからだ

たとえ誰も死なないとしても 誰かに危害が加わる可能性がある事案を放置しておけば責任問題になり これは倫理や人間性が問われるが

トロッコ問題というのは もはやどうしようもない状況の中での「死んだ人数」の話だけであって これは倫理の話ではない

しかし マイケル:サンデルはトロッコ問題の話の冒頭で「さあ 倫理の話をしよう」と言っているのである

 

「人が死ぬこと」の全てが倫理の問題になるわけではない

何万人死のうが当人には不可抗力な選択であれば 倫理的責任問題には問われないからだ

「サバイバーズギルド」のように 目の前で大量の死者が出るような状況だと 不可抗力でありながら「何か出来たことはあるんじゃないか」という感覚的な「罪悪感」を感じてしまうことはよくあることだが

これは錯覚に過ぎない

トロッコ問題というのは 「死者の数」を選択させることによって あたかも倫理的責任問題であるかのような錯覚をさせているだけであって 本当は「倫理の話」ではないのだ

 

これもまた 主観的な「印象」操作によるペテンの一種である

たとえどんなに「悩ましい」問題で「悩んで」も そもそもそれが倫理とは無関係であることには気づかないのであれば それは何も「考えて」などおらず

ただのバカに過ぎない

 

 


Ende;

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評価の価値

2021年08月22日 21時27分40秒 | 意識論関連

自分が何をしていれば楽しいのかがわからなければ 他人との比較でしか自分の価値を測ることができなくなり 結果的に評価承認欲求中毒にならざるを得ない

他人との比較競争に明け暮れていても 本当に望んでいることではないため ストレスは解消せず エタノールだのニコチンだので脳を麻痺させなければならず

「俺の方が物質的に豊かで優位だ」という外見的な価値観でしか幸福を測ることができなくなる

だから「他人からの見た目」を「自意識」と勘違いしている

 

自分が何をしていれば楽しいのかを知っていれば 他人との比較には意味がなくなる

そもそも快楽満足(脳内麻薬の量)は他人とは比較できないものであり 個人的なものに過ぎず 楽しいとか充実しているといった主観は競争にはならない

他人に迷惑をかける者というのは 他人との比較で優位に立つことしか頭(意識)にないため 純粋に楽しむということができずに我慢というものができなくなる

かくいう私でも 写真を撮ろうとしている時に被写体の前を他人に横切られると「イラッ」とすることはある あるが 別に怒鳴ったりはしない 顔に出てしまってはいるかも知れないが あくまで個人的な楽しみに過ぎないので 他人に何かを強要してまで遂行することではないからだ

自分だって無意識に他人の楽しみの邪魔になっていることもあるかも知れないし これはお互い様だと思っていれば 「イラッ」とはしても怒鳴り散らしてどけようとまでは思わない

ところが 他人との比較競争ばかりに意識を奪われている承認欲求中毒の場合 本当は好きで写真を撮っているわけではなく あくまで「多数他人から評価をされること」が目的であるため 純粋に楽しむことも 他人の行動にも 迷惑にも配慮が効かず 野良犬のように怒鳴り散らすのである

精神に余裕がないのだ

精神が貧しいため 何をしても満たされることがなく あらゆる出来事がストレスになっているため 他人に八つ当たりをする形で怒鳴り散らすのである

思い通りにいかないなら どうやったら思い通りになるかを「工夫」する 試行錯誤するだけの意欲とか粘り強さはなく 短絡的に自分の主観的な感情が行動に直結してしまうのである

目の前の事にしか意識が働かないのは チンパンジーと同じである

チンパンジーは目の前のことしか興味がない

だから 他人にとっても利益になることで社会全体が潤い 結果的に自分のためにもなるという統合的な観点は働かないのである

自分が好きなことを続けられるのは 社会が安全で持続可能だからであって 好きなことを続けるためには社会が安全で持続可能でなければ困るから 公益的視点や自律的な社会的責任判断に則った行動選択もできるようになるのである

決して私自身が先天的に「人間として優れている」わけでは断じてない

 

私は 学生時代に学力成績に酷くムラがあったため 何の努力もしなくても成績が良い科目もあれば どんなに頑張って努力しても全く成績が伸びない科目もあったのだが

教師からは結果的な数値成績だけを基準に「よく頑張ったわね」とか 「努力が足りない」などと勝手な評価しかされなかったため 他人の評価なんぞ真実とは無関係であることを嫌と言うほど思い知らされたのである

実際に 世間的評価なんぞ 論理客観的な根拠は何もなく ただの流行りや外見的な雰囲気だけでデマでも嘘でもペテンでも構わないのである

それで真実が見極められるわけもなく 当然社会安全性も持続可能性にも糞の役にも立たない「大衆迎合」にしかならない

大衆迎合は金儲けにはなるだろうが そんな利己的利益を追求しても個人的な楽しみとも 社会安全性とも無関係なのである

世間一般の大衆にとっては 利己的金儲けにとって有利な話には飛びつくが それは「エサに群がるハイエナ」のような行動であって 賤しいケダモノに良く似ている

 

ヒトの行動の選択肢には様々なものがある

選びたい放題にいろいろある

複数の分岐がある道の 目先の利益を基準に選択するか それともその道の先 遠くにある「目的」を基準に選ぶか そこに人間性が現れるのである

目先の旨そうなエサにつられ その行き先が暴走破綻である可能性にまで配慮が働かないバカだけなら 人類は破綻にしか至らない

「旨そう」なエサが本当に自分のためになるのかどうかも 本当はわかったものではなく 高血圧で塩中毒になったり 高脂血症や糖尿病などの生活習慣病に陥って苦しむかも知れないのである

目先の主観的好き嫌いだけで行動していれば 人間としての社会的責任も 本当に望んだ結末も得ることはできなくなる

本当に個人的に好きなことを続けようと思えば 体調管理もできるし 社会全体への配慮もできるようになる

その「意識の広さ」にこそ 人間性が働くのであって 人間性というものは先天的に決定している遺伝的なものではない

ヒトという種の生物でありさえすれば 自動的自然に人間性が発揮されるようなものではなく 物事をどう認識するのか その違いを作るのが客観性や論理検証性なのである

「絶対に知覚することができない」とされる実証不能の謎の叡智界なんぞを鵜呑みにしていた方が気分が良いのかもしれないが それこそが「目先のエサ」につられてペテンを鵜呑みにする頭の悪さの原因である

 

ヒトの多くは目先の主観的「印象」だけで物事を判断しがちだが 自分の主観的「印象」に 絶対に錯覚が含まれないと思っていること自体が傲慢さの原因である

自分の感覚を疑うことは 慣れないと不安を感じるのかも知れないが 主観が作り上げる錯覚に惑わされて真実が見えなくなることの危険性の方を 本当は「怖れ」なくてはならない

洗脳状態のカルト宗教の信者のように 何の疑いも持たずに盲目になっている方が安心で満足なのかも知れないが それこそが客観的真実からの逃避を促される原因であることを 自ら「気付く」必要がある

ヒトは誰も深く考えて「いいね」ボタンを押しているわけではない

その場限りに楽しいとか 面白いだけで押しているのであって 本当に深く物事を考えて他人を評価しているわけではない

だって 自分が「いいね」ボタンを押す時に そんなに深い思慮なんぞしてないだろ だったら多数他人の「いいね」ボタンの数だってさしたる価値はない

 

 

Ende;

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斎藤幸平

2021年08月22日 11時13分41秒 | 意識論関連

斎藤幸平というカール:マルクスを研究している哲学者がいて

この人は西研などのバカ哲学者とは違って言っている内容に整合性がある

むしろ学界では異端扱いだそうな

斎藤幸平の主張では 「資本主義は社会を崩壊させる」的な様々な要素を挙げてきているんだけど

制度とか法律といった「手続き」的なものでは細かい対処ができずに どうしても「抜け道」「抜け穴」によって制度や法律の主旨を逸脱した使い方に陥りかねない

資本主義か共産主義かのどちらが「正義」なのかを論じても トロッコ問題同様に「一人殺すか 五人殺すか」を議論しているのと同じで 根源的な部分が抜け落ちている

重要なのは 制度法律の問題ではなくて それを運用する「人間性」や「意識」の問題なのである

中央集権的にトップダウンで物事を決めるにせよ 権力闘争に使われてしまうか それとも本当に社会安全性のために使われるのかは 「人間性」の問題である

現実には 例えば今回の感染症対策においては 国民一人一人の個人が丁寧な対策をしないことには首相や都知事が何をしても全部無駄になってしまう

結局は国民個人の「意識」こそが重要なのであって ただ盲目的に「法律や制度に従う」といった手続き的な機械的条件反射だけでは問題の解決にはつながらない

飲食店が営業自粛をどんなに耐えて頑張っても 路上呑みによって全てが無駄になるのである

こうした国民個人の「自律」的判断が重要なのは 温室効果ガス削減においても同じである

照明器具を全てLEDに取り替えて こまめに節電を心がけても 隣家で冷房ガンガン効かせて白熱電球点けっぱなしにして寝ていたのでは意味がない

「利己的金儲けにさえ邁進しておけば自動的に社会全体が潤う」というデマを作り上げたのはアダム:スミスの「見えざる神の手」幻想である

「見えない」 すなはち「認識できない」何かによって自動的に良い結果が得られるかのようなデマを流しておけば バカな大衆は「自分達は何も考えなくて良いんだな」とばかりに益々バカが酷くなり 方向性のない暴走破綻への道を突き進むようになる

そして更に 遺伝的進化万能妄想を持ち込むことによって 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 自動的自然に正しい結果に導かれる習性を持っている」かのような妄想で満足し ありもしない力学や構造によって意識を「超越」した実証不能の謎の「目的」に向かって自動的に誘導されるものだと錯覚するのである

 


ヒトの先天的な動物習性としての「社会性」とは あくまで狩猟採集生活や部族紛争における優位性に特化されたものであり 基本的に暴力的で封建的不平等な集団組織を作り出すための統率的協調性に過ぎない

同士での領地争いに「勝った」集団だけが「生き残った」結果であって 資源の乏しい自然環境下においては過酷な生存競争に「勝た」ないことには生き残れないのである

だから子供だけを集団にしておくと自動的シーケンシャルにイジメ差別が始まるのである

ヒトに限らず 動物というのは「情動行動」がベースであって 主観的に「怖い」とか「嫌い」なものから逃げ出し 「安心」で「好きな」ものには迎合同調したり集まったりするものである

通り魔の被害者の多くが無抵抗な子供や女性なのは 通り魔にとって「勝てそう」で「怖くない」から標的にされるのである

これは集団組織的なイジメにおいても同じで 「勝てそう」な弱者にしかイジメは行われることはない

集団組織的に協調して暴力を振るい その集団の中だけの「正義」を振りかざしておけば仲間意識を満足させることができるからである

「卑劣」という概念は 自然環境下における生存競争において成立せず 勝って生き残れば生存であり 現状の生物学界では「生存」という結果そのものを「目的」だと言い張って正当化してしまっているのである

勝てそうにない相手に迎合同調し 生存にとって有利に持っていこうとする卑劣な行動であっても 生存にとって有利で「死なず」に済めば「正しい」行動ということになっているのである

 

目先の安心満足を追求すれば 総合的には損失になり得る可能性には配慮が働かない

化石燃料を大量に消費して温水を無駄遣いし 無駄に大型の乗用車を一人で乗り回すような物質的「豊かさ」ばかりを追求していれば 当然地球環境には負担になる

「地球環境」と言うと あたかもゴキブリやドブネズミやウイルスも含めた途方もない他人事のような錯覚をもたらしかねないが 実際には「ヒトの生息環境」としての「地球環境」保全であって 別にヒトが絶滅しようがどうなろうが岩石の塊に過ぎない「地球」にとってはどうでも良い話なのである

ヒトという種の生物には 目先の快楽や安心満足を追求する習性しか組み込まれておらず 何も「考え」なければ環境破壊だろうが不公平であろうが 自分に直接的な「痛み」が伴わなければ興味すら持たない

そういう「残念な生き物」なのである

ヒトの知能というものは 元々個体の生存価にとって有利な行動選択を合理的に選択するために進化したものであって それ以上の社会安全性や持続可能性にまで配慮意識するようには進化的にできていない

だからヒトの多くは利己的行動しか興味を持たないのである

 

ヒトは先天的には「人間として欠陥品」ではあるが 欠陥を自覚認識することで 欠陥を補うことは可能である

本来「哲学」とは 物事を深く検証するためのものであるのだが いつの間にか「主観的納得感によって満足して安心するためのファンタジー」で大衆人気を得るためのものにすり替わってしまっているのである

「気分が良くなること=正しいこと」という方程式は 「自分の気分こそが絶対的に正しいもの」という傲慢さから導き出されるのだが その自覚は「考え」なければ出てこない

 

「見えざる神の手」だとか「理性を超越した 絶対に知覚できない叡智界」といった 実証不能の謎の観念に囚われ 自分では何も考えないように誘導洗脳されていた方が ヒトは安心で満足なのである

この根本的欠陥を自覚認識しないことには 資本主義も共産主義もヘッタクレもないのである

 

 

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目的

2021年08月21日 12時57分47秒 | 意識論関連

「印象操作」という言葉がある

要は雰囲気的な「印象」を作り出すことで ヒトの認識を歪めることである

だが これは 騙す方も悪いのだが 騙される方にも問題がある

 

占い師がよく使う手口で

「他人の言うことを信用しないのは 人間として心の狭い態度です」という屁理屈がある

ヒトの多くは他人から「心の狭い奴だとは思われたくない」という恐怖心から この言葉を鵜呑みにして占い師の言っている内容を全て信じ込むように誘導しているのである

「ご苦労さまは上から目線」というマナー産業のデマも同じことで ヒトの多くは他人から「上から目線で物を言う傲慢な奴だとは思われたくない」という恐怖心から やっぱり嘘つきの話を信じ込んで鵜呑みにする

 

「自意識」という言葉があって これは一般的に「他人からの見た目」のことを指すのだが

「他人からの見た目」は実際には「自分の意識」ではなく 前述のように観念的恐怖心であり 条件反射的な無意識に過ぎない

「○○だと思われたくない」恐怖心に苛まされるがあまりに 自分が本当は何をしたいのかがわからなくなるのも 「他人からの見た目」を気に病むことで自分の本当の気持ちが見えなくなるからである

本当にしたいことがわからなくなれば 人生は「生きているだけでストレス」にしかならない

そのストレスを解消する形で エタノールだのニコチンだの 最悪の場合危険薬物に手を出してまで脳を麻痺させようとし始めるのである

「酒を飲んで酔っ払う」ことは 多数の他人もやっていることなので これはどんなに社会的迷惑であろうと感覚的には「怖くない」ため 「本当にやりたいこと」は他人からの見た目を気に病み忌避するが 「泥酔して意識を失う」ことは平気でできるのである

 


全盲の人に強い光を当てても「眩しくない」ことや 聴覚障害者に爆音を聴かせても「うるさくない」のと同じで

大脳辺縁系を損傷した人が「丸焦げにされた赤ん坊の屍体を見せられたら飯がマズい」とは「思わない」としても

大脳辺縁系を損傷した人の場合は 飯が旨いとも不味いとも「思わない」のであって 他人からの「印象」だけで人間性の反証には一切ならない

飯は食べないと死んでしまうから 死んでしまうのは良くないことだから 食べているだけであって 食べることに楽しみがあるわけでもないので 赤ん坊の屍体を見ても「一般的に嫌なこと」だと知識的に「知っている」だけであって 感覚的には何も「わからない」のである

断片的に仲間内に「利他的行動を採ったから人間性だ」とか

「多数と感覚が違う」だけで人間性の反証であるかのように言い張るとか

これらは大衆の観念的「印象」を用いた詐欺ペテンに過ぎない

「丸焦げにされた赤ん坊の屍体を見せられたら飯がマズい」のは 感覚であって理論ではない

社会的意味としての理論的根拠は「次世代の安全性が確立されないことには何をやっても無意味になる」ことである

逆に 「凶悪殺人犯は死刑にしちまぇ!」というのも感覚だが

論理的には「どうして凶悪殺人なんぞするようになったのか」についての原因究明や再発防止こそが社会安全性において最も重要なことであり 刑法罰で「解決」にすることの方が無責任だと言えるのである

 

大脳辺縁系を損傷していなければ 大抵の場合は「丸焦げにされた赤ん坊の屍体を見せられたら飯がマズい」のであって これは別に日頃から他人の迷惑に配慮できないかどうかとは無関係なものであって 糞DQNでも「丸焦げにされた赤ん坊の屍体を見せられたら飯がマズい」とは「思う」ものである

だからといって糞DQNの人間性や人間としての社会性が立証されたことにはならない

 

自分の個人的主観に過ぎない「印象」だけで物事を判断するというのは 既存の自己が持っている固定観念や価値観や先天的本能習性を全く疑わない傲慢さによるものであるのだが

ヒトの多くは その方が「既存の自己を正当化」できるために満足安心して傲慢さを発揮し続け 論理客観的な根拠証拠に基づいた「現時点での選択可能性」を簡単に放棄するのである

これが「バカ」になる構造原理である

バカというのは何も考えないので 考えなければ問題意識自体も働かず 問題だとも「思わない」

自覚症状がないからバカは難治性が酷いのである

暗記速読の類いさえやっときゃ「頭が良くなる」と「思って」いるバカは多いが イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の何ページに何が書いてあるのかを憶えたところで その内容の論理整合性の崩壊には誰も気づかない

養老孟司もマルクス:ガブリエルもニーチェもプラトンも同じことであり 世の中の「哲学書」として分類扱われている書籍の大半は 本当は論理客観的根拠の欠けた観念論に過ぎず 社会的には意味が全くない


私の文章には「バカ」という言葉が大量に使われており 日本語の文章の規則(形式)を無視した書き方もしているので 読み手の気分が悪くなって「品格がない」だとか思っているバカも少なくないことはわかっている

逆に言えば 詐欺師やペテン師というのは外見上の「品格」を装うことでヒトを騙すのであって 私にはそのつもりがないので外見には興味がない

読み手がどう「思う」のかどうかは関係がない

個人の主観的な「印象」で物事を判断すること自体が「バカ」だと言っているのである

 

本論は多数大衆から好かれて人気を得ることが目的ではなく ヒトの頭の悪さを「理解」していただくことが目的である

 

 

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目先の満足

2021年08月20日 10時39分53秒 | 意識論関連

論理思考の成立していない文科系のマスコミや「哲学者」共は 主観的な「印象」だけで人間性の論証のように言い張るが

個人の主観的な「印象」が 本当の「人間性」や「倫理性」の論証になるわけではない

多数決的に個人の「印象」を集めてきても それが論理客観的に人間性や倫理の証明にはならないからである

 

人間性や倫理の根幹とは 「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であり 「社会的責任を負う」ために必要なのは論理客観的に真実を見極め区別できることが大前提である

何が真実なのかも区別できないバカに社会的責任など負えないからだ

自分勝手な主観的「印象」だけで物事を区別しているようなバカに社会的責任なんぞ負う資格はない それはメンタリストのDaiGoを見れば明らかである

 

大衆の多くも 自分の主観的「印象」だけで人間性だと錯覚する習性があるため 振り込め詐欺師が「丁寧な口調で話していた」というだけで相手を信用して騙されるのであり

言っている内容を論理客観的に「理解」せずに鵜呑みにするから「バカ」げた嘘を見抜けなくなるのである

 

ヒトの多くは自分の主観的な「印象」から受ける感情を 自分の意識の本質だと勘違いしており だからこそ簡単に振り込め詐欺にも引っかかり DaiGoのような感情的差別にも簡単に陥るのである

目先の感情は意識の本質ではない

様々な感情の中から客観的に優先順位をつけ 本当の「目的」に基づいて冷静に判断しなければ 人間としての社会性や倫理を発揮することはできない

DaiGoのような「間違い」は ヒトであれば誰でも陥る可能性のあるものであって 「他人のフリ見て我がフリ直せ」とも言うように 失敗を教訓としてヒト全般の「財産」として活かすことが重要であって DaiGo個人をよってたかって袋叩きにしても意味はない

ヒトは どうしても特定個人を集団で袋叩きにしておけば「正義」になるという「感覚」があり 罰を加えたり死刑にすることで問題の全てが解決したと錯覚する習性がある

DaiGoが陥った「ホームレスは殺せ」という「感覚」もまた同じ主観的「正義」に基づいた言動であり DaiGo個人をいくら糾弾してもヒト全般に普遍的に見られる「間違い」の再発防止にはならない

 

「生命は大切」という話もあるが 「自分の生命」だけが優先してしまえば他人への迷惑にも配慮が効かなくなるのであって 単に「生きていれば良い」という雑な話にもなりかねない

「死んでないなら良いだろ」というのであれば 差別も不公平も不条理も許容されかねない

どのみち全てのヒトは死ぬ運命にある以上 生命生存というのは絶対的価値にはならない

たとえ医学や科学の進歩で永遠に生きられるようになったとしても 永遠に生き続ける必要性は特にないのである

生存は「生物(ヒト)の結果」であって「人間の目的」ではないからだ

子供に「生命は大切」と説いても 「それじゃ鶏やブタや牛は何で殺して良いの?」という問いには答えられない

たとえ植物であっても「生命」である以上 優先されなければならない理屈にはならない

人間性にとって最も重要なのは「安全性」であって 他人の安全性を蔑ろにしておいて自分だけ安全を確保してもらおうというのは身勝手で傲慢な態度であり この傲慢さこそが不公平や差別を生み出す原因である

「ヒトがヒトを殺して良い理由」はないとは言え 「ヒトとヒトが殺し合う社会に生き続けなければならない理由」もまた存在しないのである

情動自体が失われた「大脳辺縁系を損傷した人」ではない以上 生き続けることに不条理な苦痛を感じている人がいるかぎり 自分だけが幸福になどなれないのである

大脳辺縁系を損傷した人の場合は 苦痛も幸福すらも「感じる」ことがない(痛覚はあるかもしれないが)のであって それ以外の人の「感覚」で同列に語ることはできない

 

自分の生命が軽んじられる社会の中であれば 他人の生命にも配慮ができなくなるのは必然である

犯罪者の多くは幼少期の家庭において存在を軽視されてきたために 他人に対する配慮もできなくなってしまっているのであって 「他人の迷惑に配慮が出来ない」というのは「哀れな存在」でもあるのだ

犯罪という「結果」だけを見て 「罰で解決だ」と主張するのは簡単だが 簡単なことで諸問題が解決すると「思って」いるのは社会的に無責任でもある

これは「制度が悪い」で片付く問題でもない なぜならこの国では制度上民主主義を導入している以上 制度の欠陥を放置することは国民一人一人の責任でもあるからだ

法律や社会制度は民主主義制度下では「他人事」では済まされない

学力が高いだけのバカに任せておいても 問題の解決にはつながらない

誰が本当のバカなのかを見分けるためには 自らのバカさを理解認識する必要がある

自分のバカさがどのようなものなのかを理解できれば 他人のバカさも区別可能になり バカの言っているデマカセに惑わされて意味のない行動や制度や法律に振り回される必要もなくなり 「人災」に由来する不条理や不公平に無駄に苦しむ必要もなくなるのである

自分の主観的「感覚」だの「印象」だけで物事を判断すべきではない

誰しもが「ヒトという種の生物」に過ぎない以上 「間違えないヒトはいない」のであり 「自分も間違える可能性が充分にある」という自戒が必要なのである

感情に任せて特定個人や団体をディスっても それが「社会安全性」や「自分の人間性」の論証にはならない

それはただの身勝手な「目先の満足」しか得られない

 


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ダイバーシティー

2021年08月19日 23時04分07秒 | 意識論関連
言葉による虐待を受けて育った場合 側頭葉(発話言語を司るブローカ野と見られる)の肥大が見られるという

その結果 他人の言葉に異常に敏感に反応しまい 安心して生活することもままならなくなるという



虐待を受けて育つと大脳新皮質全体の萎縮が見られるのだが 言語による虐待の場合は局所的に言語機能などの特定の無意識機能を司る領域が無駄に肥大し 不必要な過剰反応によって日常生活に支障をきたすことがあるという

いわば トラウマ的に言葉に対する恐怖を行動「学習」してしまい 不必要に他人の言葉に恐怖心を抱いてしまうことで 冷静に物事を判別する能力を喪失してしまうらしいのだ



日常的に他人の発する言葉の恐怖に怯え続けることで 常に精神的ストレス状態に陥ることで 他人に対しての配慮のようなことが出来なくなってしまうのである

その意味においては 「バカなのにも理由はある」のだとも言える

多くの大衆やマスコミがバカで 生物学者や哲学者共の嘘を見抜けないのも 生育環境において主体性や自主性を尊重してもらえなかったことによる 一種の「病」であろう

特に「責任世代」とも称される中年以上の年代の人の多くは かつての荒んだ「教育」のために 権威の言っていることに疑いを持つことに観念的恐怖を感じ 主観的な安心や満足だけで物事を判断してしまうバカが大半を占めていると考えた方が良い



虐待というものも グラデーションであり程度問題とも言えるものなので 一切のヒステリー(心的拘束)を持たない人など存在しないと思うべきであり

人は何らかのトラウマや価値観の偏りといったものが存在するものであることを前提にすべきである

それは他人のみならず 自分にもあると考えるべきで だからこそ「主観には意味がない」のである

主観的な好き嫌いなどの「思い」には社会的価値など存在せず あくまで客観的な論理的検証という「考え」に基づいて社会的価値を見定める必要があり そのためには「理性」は絶対に欠かせないのである



個人的な価値観だけに頼って「自分だけは絶対に間違えない 大丈夫だ」という慢心こそが メンタリストのDaiGoのような著しい間違いに陥る原因なのである

メンタリストなどというのは 本人が言うように元々は詐欺の手口であり 「他人を手玉に取る手口」であって 人間性や倫理とは無関係な話であり どんなに「金儲けに利用価値がある」としても それが社会持続可能性や安全性に寄与するわけではない

ヒトはどうしても利己的金儲けに有利な話でさえあれば有り難がって飛びつき それが本当に公益的価値が存在しているのかどうかには配慮がいかなくなる習性がある

学問というものは 本来は利己的金儲けのためにあるのではなく 真理を追求するためのものである

真理とは 「本当のこと」であって 人間として社会に生きる上において最も重要な「本当のこと」が何なのかを分別できてこその「人間性」なのである

社会持続可能性や安全性において 「本当に」最も重要なものが何なのかを区別できなければ 当然ながら嘘に騙され無駄な行動しか採ることはできなくなる

個人的な好き嫌いは「主観的事実」ではあるものの 決して「客観的事実」の論証にはならない

「生田絵梨花よりも和田まあやの方がカワイイ」と「思って」も構わないが 「ホームレスは俺様にとって害にしかならないから殺せ」という話にはならないのである



生活保護の主旨を逸脱したお金の使い方しかしないホームレスもいるのだが ギャンブル依存症という「病気」が原因なら それは「治療」が必要であって 短絡的に「殺せ」だの「支給を打ち切れ」という判断には人間性が欠けていると言える

それは犯罪者でも同様で 懲罰をどんなに加えても精神の「病」は治らず むしろ悪化してしまうことによって逆効果になるケースも少なくはない

その場合も被害者は一般人であって 自分も含まれるのである

自分が再犯被害に遭ってから 「何でコイツは治らんのだ」と後悔しても遅いのである

そもそも刑務所は犯罪者を「治し」てなどいないのである

この著しい根本的制度の欠陥を放置しておくことも 本当は遭わなくても良かったはずの再犯被害に対する無責任性の片棒を担いでいることになるのである



かく言う私にも価値観や好き嫌いの偏りはあって 若い女子同士が仲良くしているのは素敵だと「思う」が ハゲオヤジが手を繋いでいるのは気持ち悪いとしか「思わ」ない

だが そんなものは私の個人的な好き嫌いの範疇であって 個人的に「嫌い」であっても許容する理性こそが「ダイバーシティー(多様性の受容)」というものである



そういや滝沢ななえちゃんが「本当は男の人が苦手なのに 男の人に可愛いと言われることに罪悪感を感じてしまう」と言っていたことがあるが 私個人的には女子しか興味のない女子もまた素敵だなと思っており そもそも可愛いと思うのは思っている方の勝手なので 罪悪感を「感じる」必要性は全くないはずである

サバイバーズギルド同様に 無駄な罪悪感で悩む必要性はない

自分の主観的な「感覚」自体は変えようがないものだが 無駄な感覚に「悩む」必要性はないのである

そんなものはただの錯覚に過ぎないからだ






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笑い話にもならない

2021年08月19日 22時02分11秒 | 意識論関連
大脳辺縁系を損傷した人の場合 赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さないかも知れないが

それが短絡的に人間性の反証には全くならない

大脳辺縁系を損傷した人は利己的行動を採ることも 暴力で物事を解決することもなく 決して人間としての社会性が欠けているわけではない

「赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さない」という姿を見て これに人間性を「感じられない」のは見ている方の主観的感覚や「印象」に過ぎず これだけで「人間性の反証」には全くならないのである

凶悪犯罪者であっても 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」ことはあるかも知れないが だからといってそれが短絡的に凶悪犯罪者の人間性の論証にはならないことからも 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」かどうかだけでは人間性や倫理の論証には全くならない

「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」性質があるからといって これを短絡的に「先天的人間としての社会性だ」と主張するバカも後を絶たないが 先天的な社会形成習性というものは統率協調的に差別排除や集団的暴力の要因にもなるのであって 単なる情動の一面だけを採り上げて「人間性だ」と言い張るのは論理の飛躍も甚だしく あまりにもバカげている



フィニアス:ゲイジの事故後の写真から受ける「印象」だとか 「社会の中で日常生活を送っていた」などという話だけではゲイジの人間性の論証にもならない

なぜなら 東京電力福島第一原発の安全担当者であっても「社会の中で日常生活を送っていた」のであって それだけでは人間性や倫理の論証には全くならない

どんなに凶悪な犯罪者であろうとも 逮捕されなければ「社会の中で日常生活を送っていた」のであって 「社会の中で日常生活を送っていた」だけでは何ら人間性や倫理の論証には全くならないのである

連続殺人犯の多くというのは 「社会の中で日常生活を送る」ことができるからこそ 何度も殺人を繰り返しても捕まらずにいられるのである

フィニアス:ゲイジについては それほど詳細な知見が残されているわけではないので 実際のところ「人間性に問題があったのかどうか」については本当のところ「わからない」のであって これを論証に使うことは避けるべきであろう



そもそも大脳辺縁系を損傷した人の行動や 前頭葉を損傷した人から受ける主観的「印象」だけでは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が正しいことの論証には全くなっておらず バカ「哲学者」共による既得権保守のためのはぐらかしやごまかしにしかなっていないのである



凶悪犯罪者の大脳辺縁系は損傷しておらず むしろ暴力を伴う虐待によって大脳新皮質の萎縮が見られる場合の方が多いことからも 「理性は悪だ」という論理は何一つ成立しないのである



「利己的金儲け」という行動は 「利己的」であるという点において欲望が主体であり 理性が主体ではない

別に大脳辺縁系を損傷したからといってガムシャラに利己的利益追求をするようなことはしないし

利己的金儲けに邁進するのは むしろ理性を欠いた欲望まみれのヒステリックな動物的行動であって 何ら「純粋理性」でも何でもないのである



こうした「哲学者」共による論理的根拠を欠いた その場限りの取り繕いによって バカなマスコミや大衆やバカ学生共をはぐらかしたところで カントの「純粋理性批判」の内容の正当性は全く立証できていないのである

そもそも「絶対に知覚できない」叡智界は立証不能であり 「なぜ絶対に知覚できないのか」についての論理的説明も全くされていないのであって こんな話が「哲学」として成立するわけがないのである

現状の「哲学者」共は 誰一人としてイマヌエル:カントの主張を疑うことなく 「近代哲学の最高峰」などというバカげた評価を鵜呑みにしていた頭の悪さを隠蔽するために 大衆やマスコミの頭の悪さを利用してフザケたはぐらかしで既得権や体制維持をしているに過ぎない

プラトンもニーチェもカントも 論理客観的な論証としては成立していないが故に ナチスにも都合よく解釈可能なのであって こんな話を「哲学」として取り扱っていること自体「A級戦犯」に匹敵する犯罪的行為である



バカなマスコミや大衆は 断片的にしか物事を検証することができず 統合的な観点からは何が本当に正しいのかは判別できないため 既存の権威の言っていることを鵜呑みにすること以外が何もできない「デクノボウ」から脱することができないのである



同じ大学の職員として 哲学科や生物学科の組織腐敗を放置することは 生徒に対する詐欺的行為に加担しているのも同じことであり 赦されることではない

工学科や物理学科や天文学科の職員であっても 専門外であろうと組織腐敗を放置しておいて良い理由には全くならない

日大アメフト部の組織腐敗を 危機管理学部が放置していたのではギャグにもならないのである





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とても簡単

2021年08月19日 12時45分58秒 | 意識論関連

目先の感情 「気持ち」ってのは時々刻々変化するものであって 一貫性がない

無差別殺人犯の報道があったりすると 「何だコイツ死ねばいいのに」なんて思うこともあれば

服役囚の6割が幼少期に暴力を伴う虐待を受けて育ったという事実を知れば 罰だけでは問題の解決にはならんのじゃなかろうかとも思うだろう

「天使と悪魔」じゃないけど 一人のヒトの中には様々な感情気持ちが渦巻いていて それは目先の状況とか環境とかに左右されてコロコロと変化するものでもある

どんな情動行動バイアスが「天使」で どんな情動行動バイアスが「悪魔」なのかは 本当は「知って」いて だからこそ「天使」か「悪魔」かが区別できる

ところが 冷静さを失うとこの区別もできなくなる

パニック状態のヒトというのは 自分の感情が意識の全てになってしまって 客観的に物事を検証する冷静さを失って 非合理な行動に異常執着することがある

振り込め詐欺師に騙されている人とか 「ワクチンは危険」クラスターのデマに洗脳されている人とか カルト宗教の信者とか

別に単純に「多数だから正しい」ということにはならないのだけれど

「自分が主観的に信じたいと思っている」ことが「正しい」ことにもならない

入手できる様々な情報全体像から 客観的根拠を伴った合理性ある情報がどれなのかを判別することで 本当に安全な行動選択もできるようになるのだけれど

ヒトはどうしても一度信じ込んだ話に都合の良い情報だけを集めてきて 一度信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形でデマや嘘を鵜呑みにするようになる

そうしておかないと 「一度信じ込んだ自分」の愚かさまで認めないといけなくなるので これが気分を害するので 都合の悪い話には耳を貸さなくなる

これがいわゆる「認知的不協和理論」である

 

一度何かを信じ込んでしまうと 自分の気分にとって都合の悪い嫌な話の全ての方を「嘘」だとみなすようになるので 客観性を失ってヒステリックに他人の説得も拒絶するようになる

振り込め詐欺師に騙されている人は 「嘘でも良いから振り込ませてくれ!」などとまで言い出すことがあるという

ヒトという種の生物には 先天的に嘘やデマを信じ込んで疑わなくなる習性が存在しているのである

進化的な「説明」をすれば 特定の統率者の命令に疑いを持たずに唯々諾々と服従することによって 協調的に「大きな力」を発揮することができるため これが「種の保存」にとって適していた結果だと言える

歴史書をひもとけば 武力で多民族を制圧し 巨大国家を作り上げ 様々な巨大遺物を作り上げた痕跡も多数見つかっている

ヒトという種の生物は 一色で塗りつぶすことが安心で 多様性を受け入れたがらない習性があるのだ

統率的な協調性は 他民族を武力制圧することが可能であり 人類の歴史の大半は戦争による侵略の歴史でもある

自分達と異なる文化や習慣を持った他民族の存在が不安で気に入らず 武力制圧して自分達の文化や風習を押し付けておくことが安心なため ヒトは戦争をしなければいられない

 

ロシアでのキツネの人工繁殖実験では ほんの数世代で多様な変異が起きることが立証されているのだが 実際の自然界でのキツネは極めて特定の種類しかおらず 変異した個体は観測できない

これは キツネが集団組織に馴染めない個体が発生した時に 排除する習性を持った個体種への淘汰圧力によって 多様な変異体が死滅しているからである

キツネの生息環境においては 多様性を受け入れてしまう行動習性を持っていると 生存や種の保存にとって不利な状況になったため 結果的に淘汰され 多様性を受け入れない行動習性を持った個体種だけへの「進化」が生じたためである

それなら変異が生じにくい変異が生じても良さそうなものだが 「変異が起こりやすい」かどうかは先天的に決まっているのであって これは望むと望まざるに関わらず変えることが出来ない

変異とはランダムに発生するものであって 統一的な「目的」がないからだ

COVID-19ウイルスが 様々な変異を起こすことによってヒトへの感染拡大能力が高まり「種の保存」に適することも 「生存戦略」や「目的のため」ではなく 単なる「結果」でしかない

変異というのは結果的に「種の保存」にとって適していたから変異するメカニズム機構が組み込まれているのであって 変異を起こしにくい個体種が死滅した結果でしかなく 「種の保存」を目的として意図的に変異しやすいゲノムを戦略的(主体的)に「選択」したわけではない

そもそも変異している時点で「種の保存」にはなっておらず 変異の先で絶滅するとしても変異を止めるような構造や機構や淘汰圧力が働かない以上 変異は暴走的に起こり続けるのである

キツネの遺伝子が変異しやすいことも もはやキツネにはどうしようもない「結果」であって 民族浄化バイアスを持った個体種への淘汰圧力が働かない個体種以外が生息環境に適応できない以上 変異種は全て排除死滅せざるを得ない

ゲノムも習性も 主体的には選択不可能なのである

 

客観的に見れば武力戦争には何の合理性もないことは明らかなのだが ヒトは主観的に「気に入らない相手を排除差別して民族浄化をしておかないと不安」な習性があるため 死刑を伴う刑罰で「全てが解決」したことにしなければいられないのである

武力紛争の全ては 他民族や他国家に対する「懲罰」である

終いにゃ自国民にまで暴力を振るうようにもなる

ミャンマー軍事政権や香港警察による国民弾圧は 太平洋戦争に突入していった日本政府のやっていることと構造は同じである

ヒトはかつて 祖先の時代には統率的な協調性によって他民族を差別排除することで生き延びた生物の末裔なのである

だから戦争や暴力や刑罰や差別排除がいつまでもなくならない

ヒトはイマヌエル:カントが言うような叡智界になど属していないのである

多くの大衆や「哲学者」達は 訳のわからぬ実証不能の謎の屁理屈を大量に陳列された後に 「人間は叡智界に属しているのである」などと言われれば 根拠もない勝手な決め付けであるにも関わらず 主観的に満足することで鵜呑みにし 何の疑いも持たなくなる

これは洗脳そのものである

洗脳されている人々は 気分的に満足で安心だからこそ 洗脳だと自覚できない

「人智を超越」し「絶対に知覚することができない」叡智界なんぞを鵜呑みにして信じている方が頭が どう考えてもおかしい

現状の哲学界というのは そういう頭のおかしいキチガイの巣窟なのである

 

多くの大衆やマスコミは そうは「思わない」だろう

主観的に「思わない」自分を事後正当化する形で 疑いすら持とうともせず 誰一人検証もしない

「自分だけは絶対に間違えてなどいない」と主観的に「思って」いるからである

自分の主観を絶対だと「思って」いれば DaiGoのように「ホームレスは殺せ」という主張にも簡単に陥るし 梅沢富美男のように「相模原障害者施設虐殺事件の犯人など死刑にしちまえぇ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ることも簡単である

それらはとても簡単なことなのである

 

 


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無意識という大罪

2021年08月17日 14時08分57秒 | 意識論関連

虐待を連鎖している親が「俺はそういう育て方しかされてない だから そういう育て方しかできねぇ!」と主張することがある

これは生育環境から受けた「常識」を 合理性とか論理性を無視して観念的に刷り込み学習されたことが原因である

 

宮台真司が「自分で考えるなど10年早い 何も考えずに丸暗記しろ」などと言い出し その理由は「自分は教師からそう教わったからだ」などと言い出すのも 構造的に同じである

 

自分が育った環境が 本当に合理的で理に適ったものなのかどうかを検証するための「意識」がなく

「俺はそういう育て方された」ことを事後正当化することで 認知的不協和を解消する形で疑いを持たなくなる

これによって合理性も論理的根拠もない「常識」によってヒトは無駄で非合理な行動を次世代に押し付け 問題解決能力を剥ぎ取ることに邁進するようになるのである

自分が受けた育て方というものが 本当に合理的で論理的に意味のあるものかどうかに関係なく 自分が受けた育て方を受容せざるを得なかった無力を事後正当化する形で無意味な「連鎖」は生ずるのである

 

ヒトという種の生物は 一度信じ込んだり 甘んじて受け入れた物事に対し

そこに合理的根拠があろうがなかろうが関係なく 盲目的に受け入れ信じ込むことを事後正当化しておかないと気分が悪くなる性質がある

過去の自分の無為無力や愚かさを事後正当化しておかないと 自分の存在自体が正当化できなくなるという感覚が出来上がってしまうからである

 

しかし 本当の自己存在というのは 過去の自分の判断や選択にあるのではなく 今現在における論理客観的な選択可能性にこそ証明されうるものなのである

過去の自分を事後正当化しているからこそ 現時点での選択可能性が失われるのであって これこそが本当の意味で「自分がない」状態だと言えるのである

「自分は虐待されて育った」とか 「自分で考えずに丸暗記しろ」などといった過去の経験による価値観の拘束が生じ 合理的根拠のない「常識」に囚われる形で 本当に正しい選択の可能性を放棄し 喪失することで人間性や倫理も失うようになるのである

 

カルト宗教などでの「洗脳」も ヒトが一度信じ込んだ自己の選択というものを事後正当化しておかないと気分が悪くなるという先天的情動バイアスに起因するものであって

デマを信じ込んで論理客観的に物事を見られなくなるのも 振り込め詐欺師に騙されるのも 構造は一緒である

これらに共通している原因は 主観的な気分感情が論理客観的検証(考え)を阻害してしまうというヒトの先天的欠陥に因るものである

 

では どのようにすればこのような先天的欠陥に惑わされずに本当の自分の選択可能性を発揮することができるのかと言えば 目先の自分の感情を疑う必要がある

DaiGoが「ホームレス死ね」と言い出したのも DaiGoの個人的な目先の感情の強度程度だけで頭がいっぱいになってしまったのが原因である

感情というものは自分の意思とは無関係に その場限りに動物行動的なバイアス(無意識)として生ずるものであり「欲望そのものを欲することはできない」のである

それなら目先の感情や欲望の強度程度に左右されない統合的な「本当の目的」に基づいた 論理客観的根拠のある行動選択ができて 初めて真実の「自分の選択」だと言うことができるのである

 

ヒトは先天的には動物に過ぎないので 人間としての行動が採れるようには構造的にできておらず 目先のエサや安心感ばかりを求めて自分が社会の一員であるという責任感を簡単に忘れてしまう習性がある

それこそ生育環境が劣悪だと主体的に物事を検証することが全くできなくなり 他人の迷惑に全く配慮できない糞DQNにも簡単に陥ることも珍しいことではない

”ヒトという種の生物=人間”ではない

ヒトでありさえすれば 常に人間性が発揮される構造は存在せず あくまで現時点での知識に基づき検証された「目的」に適う選択ができてこその「人間」なのである

「虐待されて育ったことが正しいのか」「自分で考えるな 丸暗記しろと教師に強要されたことが本当に正しい教育なのか」 それを証するのは理性であり感情でも悟性でも純粋統覚でもない

「ヒトは実証不能の謎の叡智界に属しているから 何も考え検証しなくても自動的自然に人間性が発揮できて必ず正しい選択に至る」ような都合の良い バカな大衆の気分が良くなるようなファンタジー妄想こそが ヒトから理性を奪い 本当の人間性を喪失させるのである

「人間は叡智界に属している」だとか「天空の星々と云々…」といった論理客観的には何の根拠も示されていないカントの勝手なファンタジー妄想の方が 何も考えないバカな大衆や「哲学者」共にとっては気分が良くなるため 疑うことも検証することもできなくなるのである

ヒトは 信じたいことだけを信じようとする習性がある

気分が良くなることは信じたいが 気分が悪くなる「既存の自分にとって都合の悪い気分の悪い話」には耳を貸さなくなるのである

 

人間性を伴う本質的な自己 その意識の本質とは 既存の自己に刷り込み学習されたあらゆる「常識」や価値観に囚われることなく 論理客観的に検証し 根拠に基づいた本当に正しい選択ができることである

自分の遺伝子は自分では選択不可能であり その遺伝子から作られた脳も その脳に生育環境から刷り込み学習されたあらゆる「常識」もまた選択不可能なものである

従って 既に存在しているだけの「自己」だけでは本当の「自己」や本当の「意識」の論証には全くならず

むしろ既存の自己の常識や価値観に囚われることなく 素直に自由に考え選択できることこそが 本当の「自分」であり「意識」の本質なのである

既に存在している自分が短絡的に自分の本質なのではなく

既存の自己の常識や価値観に惑わされることなく 現時点における選択可能性の広さこそが 自己の本質であり意識の本質なのである

 

ヒトはすぐに思考選択の自由度を喪失しがちである

原因は簡単で 気分的に「嫌な話に耳を貸さなくなる」からである

植え付けられた常識や価値観だけで行動していれば ミャンマー軍事政権の兵隊や 香港警察の警官のように自国民を迫害することも簡単にできるようになる

東大医学部の学生が地下鉄毒ガステロをやらかしたのも 太平洋戦争に国民の多くが迎合して特攻を正当化するのも 構造的には同じである

既存の常識や価値観だけで行動しているというのは 条件反射行動に過ぎず 無意識な行動バイアスに流されているだけの不自由な状態なのである

だから本当には望んでなどいない結末に陥ることになる

 

動物行動習性としての「社会性」 すなはち先天的な本能としての社会形成習性が促す行動とは

自分が所属している集団組織の利益に適う行動しか促されることはなく 社会全体への配慮に基づく「社会的責任判断選択」能力を阻害するようにしか働くことはない

ヒトは 何らかの集団組織に属していることをレゾンデートル(自己存在証明)やアイデンティティーのようなものだと錯覚する習性があり

何らかの集団組織にとっての利益に適う行動を採ることこそが安心で満足感を得られるように先天的になっている

ヤクザの「鉄砲玉」も 日本軍の「特攻隊」も 「組織の利益のための自己犠牲」であり それが組織内部においては「美しい」行動なのである

東京電力福島第一原発における 組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を放棄し 原発の津波に対する脆弱性を放置したことによって起きた「人災」も同じ構造である

「お国の為」と称して軍事政権の「無駄な戦争の長引かせ」に加担しただけの特攻は「英霊」扱いされるが 戦争そのものに反対して投獄死した「政治犯」は裏切り者としか扱われない

内部告発者は社会全体にとっては有意義だが 実際には裏切り者として排除差別の対象にしかならない

 

こうした不条理や不公平は 国民がバカしかいないのに制度だけ民主主義制度を導入しているという「バカ主義」の結果である

民主主義制度を有効に機能させるためには 民衆の一人一人がバカで愚かなままでは無理なのである

そのための義務教育なはずなのだが 学力偏差値ビジネスのエサに利用されているだけで 本質的な知能が全く向上しないからこそ 「ワクチン怖い」などというデマによって医療崩壊を招く事態にも陥るのである

 

バカだと問題を解決することができない

人類は破滅への方向が濃厚でありながら 地球環境の維持すらままならず

糞しょうもない詐欺師の嘘に騙され暴力団に資金提供を続けているのである

バカを脱するために必要なのは 自分がバカであることを自覚することで バカげた判断をしないようにすることである

それは「目先の気分的には満足できない」のかも知れないが 結果的には「望まない結末に陥らないため」には必須なのである

「自分だけは間違えない 自分だけは大丈夫」という過信によって 自分の運転技術が衰えている自覚をしなかったからこそ 東池袋プリウス暴走事故は起きたのである

こうした傲慢な態度に「罪はない」という話になるわけがなかろう

 

誰の個人的主観にも意味はない

重要なのは 論理客観的な根拠を伴った自律的な社会的責任判断にこそ存在するのである

 

 

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投げる訳にもいかぬ匙

2021年08月16日 18時05分13秒 | 意識論関連

撮り鉄による迷惑行為が問題になることがあるが

だからといって撮り鉄そのものが全員悪いわけではない

迷惑行為をやらかすのは撮り鉄に限ったことではなく

ユーチューバーでも糞DQNでもどこにでもいるものである

要は「他人の迷惑に配慮が足りないバカ」が問題なのであって 「撮り鉄」などの分類が問題なのではない

 

他人の迷惑に配慮が足りないのは 評価承認欲求が強すぎて「他人よりも評価を得ようとする」ことが優先されてしまうからである

他人からの評価よりも「自分が写真を撮っていて楽しい」という純粋な動機で写真撮影をしているわけではないので 他人からの評価欲しさに中毒になり 他人の迷惑に配慮ができなくなるのである

本当に純粋に写真撮影が好きなら 他人からの評価なんぞなくても楽しめるものであって それで満足ができないのは本当は写真なんぞには興味はなく 「多数他人から評価が得られそうな写真を撮りたい」という不純な動機だからこそ 自律的な社会的責任判断ができなくなるのである

 

DaiGoが「ホームレスは死ねば良い」と主観的に「思う」のは勝手だが それを短絡的に法律や行政などの制度化して良い話には全くならない

私自身も「糞DQN死ね」と主観的に「思う」ことはあるものの 「なぜ糞DQNは他人への迷惑に配慮できないようになってしまっているのか」についての原因究明と再発防止は必要だと 論理客観的に判断している

誰しもが主観的好き嫌いは存在しているものであって その意味においては「ヒトは全て先天的には差別主義者」なのである

だが これは「結果」であって合理的根拠を伴う「目的」ではない

主観的に嫌いでも人畜無害なら無視すれば良いだけの話であり 有害なら客観的に原因を徹底究明して再発防止にすれば良いのである

 

なぜ こういう論理的には単純な合理的行動が採れないのかと言えば 主観的な好き嫌いという「結果」を 短絡的に論理客観的な最も合理的「目的」や「意思」や「意識の本質」だと錯覚してしまうからである

個人的好き嫌いや感情というものは 先天的な生理的好き嫌いだったり 後天的に生育環境によって植え付けられた安心な「常識」に基づくものから出てくるものであって これは本当の意味では「自分で選択したもの」ではない

DaiGoが「ホームレス死ね」と言い出したのは 目先の個人的な好き嫌いだけが絶対的正義だと錯覚しているからであって 誰の主観的好き嫌いであっても それだけで合理性のある社会的正義にはならない

「犯罪者は殺すでしょ」という話も 既存の社会制度の価値観を全く客観的に検証せずに鵜呑みにし 合理的根拠が伴わないことには全く気づかずに 「いままでそうだった」とか「皆が疑わないから」といった合理的根拠のない「常識」に基づいたものである

 

ヒトは 長い間誰も疑わなかったことには疑問を持たなくなる習性があり

「慣れ」ることで生ずる気分的な安心によって問題意識が無くなってしまうのである

「慣れる」という性質は 先天的な動物的行動習性であり 定常安定を求める動物の基本情動システムの根幹を為すものである

人類が「人間として求めているもの」とは 論理客観的な根拠に基づいた「安全」性であって 目先の情動的な「安心」感ではない

安全性というものは徹頭徹尾論理客観的根拠に基づいて導き出されるものであって ただの目先の個人的好き嫌いだけで決定されるべきものではない

何が本当に安全なのかを見分けるためには 「何が本当なのか」が必要不可欠であり そのための論理客観性(理性)である

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に何で大衆人気が集まるのかと言えば 論理客観的に物事を検証するのが面倒臭いバカが主観的好き嫌いを主張するのに都合が良い話だからである

だからナチスにも都合よく解釈可能となる

嘘を嘘だと 錯覚を錯覚だと認識することが可能でありながら それを目先の気分で放棄しているのは「精神の怠慢」に他ならず

「仕方ない」で赦される話ではない

「神」とか「誰か」が「赦す赦さない」の話ではなく バカしかいなければ人類は持続可能性を失い絶滅への道程を避けることすらままならなくなるからである

だから「バカは罪」だと言っているのだが バカだとそれすら理解できずに無視しようとする

そんなもんどうにもならんわ

 

 

 

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迷惑

2021年08月16日 14時29分19秒 | 意識論関連

太平洋戦争ってのは 基本的に日本の軍事政権の暴走であって

バカみたいな「日本人の精神的支柱」などという訳のわからぬ精神論的妄想に頼ったカルト宗教化によって

事実を客観的に見れなくなっていたのが根本的原因である

「ワクチン怖い」とか言っている奴らと一緒である

 

そもそも戦争の全ては「殴って黙らせれば解決だ」という短絡的でバカみたいな解決法に頼るヒトの先天的欠陥に起因するものであって

他国を「敵」とみなして暴力で服従させようとするのが根本的に間違っている

 

「暴力で解決」という観念は 動物的な野蛮な発想であり ヒトは元々野生の野獣から進化した以上 こうした発想に陥るのはある意味必然的「結果」でもある

しかし どんなにたくさんの「結果」を集めて陳列してきても それが合理的根拠を伴った「目的」の論証にはならない

戦争紛争といった「失敗」を教訓として 再発防止策を優先するというのであれば ヒトの先天的欠陥を無視するわけにはいかない

「太平洋戦争は無駄だった」と言いながら 「特攻隊がいたから今の平和がある」などというのは論理整合性のない勝手なこじつけに過ぎない

戦争が無駄なら 特攻隊も無駄だったのである

軍隊というのは厳しい訓練によって上官の命令に唯々諾々と服従することを動物行動的に「学習」させることによって 戦争などというバカげた行為にも簡単に使うことができるようにするための手法であって

いくら兵隊を鍛えても 鉄砲玉一つで簡単に死ぬのであって 殺し合いで勝敗を決めるのは物量とか兵器の質である

兵隊個人の自律的判断放棄による無責任さを 「戦争だったから 一兵卒だったから 仕方ない」では赦されないのである

それを赦すというのであれば ナチスによるアウシュビッツ絶滅収容所での虐殺も許容しなくてはならなくなる

そんなバカげた話は要らない

 

ポーランド騎兵がどんなに勇敢であったのかを賛えても ナチスの機械化部隊に対しては何の抵抗にもならなかったのである

どんなに頑張っても竹槍でB−29戦略爆撃機に勝てるわけがないのである

暴力の応酬で「勝った」からといって 勝った方の国に有利な条件を押し付けて良い理由にはならない

暴力で他者を従属させ 順位序列を押し付けること自体が人道に反しているのである

それは犯罪に対する刑罰でも同じことである

国家権力を用いて犯罪者を抑圧しても 犯罪者は「主観的に怖いから一時的に犯罪をやりたくなくなる」だけであって

犯罪者自身が自己客観的に自分の行為を自覚認識し 主体的に犯罪には手を出さないようにはならないからこそ再犯率が50%近くも存在するのである

抑え込む他人がいなくなれば タガが外れて再犯する

人間性や倫理の本質は 「個人が自律的に社会的責任判断選択を行えること」であって 暴力で他人を抑圧すること自体がそもそも人道に反しているのである

一人の人間 一人の社会人としての行動を求めるのであれば 罰などの恐怖で抑圧するのではなく 一人の「人間」として扱い 個人の主体的社会参加を促すことが必要である

「罰で全てが解決だ!」と言い張るのであれば それは一種の脱法犯罪にも等しい社会的には無責任な発言である

多くのヒトが行う無責任行為であれば 多くのヒトは「安心」して無責任な行為を続けることができるであろう

だが その「安心」には論理客観的根拠が伴う保証は何もない

ただの「主観」的な感覚だけであって その感覚自体は先天的に決定している野獣だった祖先から受け継いだ習性に過ぎない

ヒトは数百世代以前からヒトだったので あたかも神代の時代からヒトだったかのような錯覚に陥りがちだが ヒトは生物史全体から見ればごく最近発生した新種に過ぎず 何ら完成された完全無欠の「人間」などではない

多細胞動物が爆発的に進化を始めた5億年前のカンブリア紀から見て 5万年というのは1/10,000*の期間に過ぎないのであり ヒトにまで進化する以前の方が圧倒的に長いのであって ヒト固有の性質もその程度しか進化的に組み込まれてはいないと考えるべきである

*:計算間違えてた

更に言えば ヒトでありさえすれば人間性が進化するような淘汰圧力など存在しておらず 実際ヒトはここ数万年ほとんど進化をしておらず 文明から隔絶された原住民であっても戦争による死亡率は1%に達する

それでも死滅しなければ「種の保存」には適していることにはなる

結果的に「種の保存」に適してさえいれば存続するのは必然であって 存続さえしておけば自動的に人間性が組み込まれる進化のメカニズム構造など誰も説明することはできないのである

バカでも絶滅しなけりゃ「生物」なのである

イワシやネズミのように 個体の生存価なんぞどうでも良くて 結果的に誰かが生き伸びれば「生物」であり

淘汰されなかった個体の形質変異を「遺伝的進化」と呼んでいるに過ぎない

逃げ足が速くなる進化にせよ 擬態にせよ 個体の努力でどうにかなるようなものではなく

ヒトの脳肥大においても先に頭部が肥大した変異が生じた上で 頭部がより肥大していない個体への淘汰圧力が生じなければ脳肥大の進化にはならない

しかも 脳が肥大してもバカはバカであり 脳肥大と知能や人間性は比例しない

哲学界におけるプラトンだのニーチェだのカントだのといったオカルト妄想や根拠のない決めつけの羅列が哲学として扱われ続けることも

生物学界における「目的のために進化した」などという進化万能論が通用してしまうのも 特に脳が矮小なバカによって温存されているわけではなく 平均的なヒトの脳容積を持ったバカによって温存され続けているのである

 

全ての生物は 生息環境への寄生によって存続しているのであって ウイルスなどの「寄生生物」と分類されているものであっても 「宿主の体内」という生息環境への適応が起きた結果であって 別に目的があって寄生しているわけではない 「宿主の体内」という生息環境に適応進化が起きたからといって 寄生生物が主体的に寄生に適した遺伝的形質を選択できるわけもなく 適さなかった個体や株種が死滅した結果以上の意味は何もないのである

生物学上における「社会性」と称して 統率協調性や役割分担の習性をどんなに大量に陳列枚挙してきても それが短絡的に倫理や人間性を伴う「人間としての社会性」の論証には一切ならない

統率協調性には盲目的服従性が伴い 役割分担性は「種の保存において有利」なだけであって 何ら人間性や倫理の論証には全くならない

テロリスト集団やゲリラ組織や暴力団や振り込め詐欺集団が統率協調性をどんなに高度に発揮しても その内部で利他的行動が見られたとしても それが「個人が自律的な社会的責任判断を行う能力」の論証には全くならないからである

 

ヒト個人が生き続けるのは 生きていることに楽しみや生き甲斐を感じられるからである

だからといって ただ自分の快楽だけを追求していて本当に生き甲斐を感じられるわけではない

隣人が苦しみ痛がっていたら 本当に心の底から「生きていて楽しい」とは思えない

どんなに「楽しいこと」であろうとも 丸焦げにされた赤ん坊の映像を見せられてなを心の底から「楽しい」という気持ちにはなりようがない

ヒトに生まれた以上 これは不可避である

自分の行動が社会持続可能性にとって有害であることを知っていながらなをやめることができないとすれば それはもはや無意識なゾンビか夢遊病者も同然である

ドーパミンなどによって促される行動しかできない「脳内麻薬の奴隷」に過ぎない

目先の快楽に溺れて統合的な観点を見失っていて「自由」もヘッタクレもないのである

先天的に組み込まれた脳の行動バイアスに無為に流されておいて 一体何が「自由」だと言えるのか

自らの脳の構造や行動バイアスは自分で選択不可能な先天的に決定しているものであって これに流されているだけなら一切の主体的選択可能性は放棄しているのと同義である

自分の遺伝子を自分では選べないのと同時に 自分の脳の構造も 先天的行動バイアスも 生育環境から刷り込み学習された「常識」などの価値観も それだけでは主体的な自由「意思」にはならない

本当の自由意志とは 様々な価値観の中から本当に優先すべきものを「選択」することであって ただ目先の欲望だの感情だのに場当たり的に左右されていていたのでは自由とは言えないのである

個人的に楽しいと思えることを 心の底から楽しむためには 他人の楽しみや苦痛にも配慮する必要性がある

「自分の目先の快楽にしか興味(意識)が働かない奴になりたい」と思っていれば その時点でもはや人間として「病人」である

誰が人間として「病人」なのか その区別ができないから人間性や倫理も見えなくなる

目先のご機嫌取りを短絡的に人間性か何かだと「感じ」る自分の頭の悪さには自覚がない

気分の悪くなる「自分にとって都合の悪い話」には耳を貸さなくなる

それがヒトの頭の悪さの根本原因である

ヒトがバカなのは一種の天災だが バカを自覚することを拒絶することで起きる迷惑は「人災」である

あらゆる「人災」は バカが引き起こすのである

 

 

Ende;

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本当の過ち

2021年08月15日 16時13分15秒 | 意識論関連

スーパーのレジに並んでいた時に

レジ直前で空けていたディスタンスに高齢女性が割り込んできた

「え!」とは一瞬思ったが まあ仕方ないと無視してそのまま先にお会計をさせておいた

高齢になると視野が狭くなることもあるので 私が並んでいることを見落としたのであろう

相手はいわば社会的には「弱者」でもあるので 目くじら立てて「俺の方が先だろ!」とかは言わなかった

特に急ぎの用事もなかったし

 

だが 相手が学術権威で 科学的根拠のないデマを流布していた場合には話が違う

権威という社会的には「強者」であるから これは徹底して攻撃対象にする

デマや嘘を流布していたのでは「権威」としても社会的役割を果たしておらず 無責任だからである

医療臨床では科学的メカニズムがわからなくても 多くの場合効いているだけで利用されている治療法というのはよくある話ではあるのだが

これは進化生物学における遺伝的進化の「結果」にまで拡張解釈するのは大間違いである

遺伝的進化の「結果」というのは 過去にどのような経緯を辿ったのかを全て把握できているわけではなく 現在生き残った生物種やウイルス株だけでしか類推することができないものであり 医療臨床のように豊富な臨床データに基づいて判断するのとは話が根本的に異なる

結果だけを見れば遺伝的進化というものは「種の保存にとって合理的」だとは言えるが それは「種の保存」自体が結果に過ぎず 結果に対して合理的な進化が起きるのは必然的当たり前の話である

液体が低い場所へと流れる自然現象という結果から 「液体は低い場所へと流れることが目的である」という帰結にはならない

河川は 最も合理的な流路を選んで流れるが 別に河川が海に至ることを目的として合理的流路を選んでいるわけではなく 結果的に最も合理的流路になっているだけの話である

遺伝的進化というものは 自然現象であって シーケンシャルに生ずる「結果」以上の意味は存在しないのであって 結果だけを抽出枚挙してきて「生物の目的は種の保存だ」などという話は 結果に対する事後正当化のこじつけでしかない

 

リチャード:ドーキンスは 進化的にヒトには利他的行動へのバイアスが組み込まれている可能性について言及しており これがバカな大衆や生物学者にとっては「ヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 本能習性任せにしておけば自動的に人間性が発揮される」というトンデモナイ大嘘に利用されているのである

利他的行動はヒトでなくとも大型のオウムでも採るという

利他的行動を採れば あたかも人間性の論証であるかのように錯覚可能かも知れないが 振り込め詐欺師が仲間内で飯を驕ったからといって人間性の論証にはならない

残虐なゲリラやテロリスト同士で統率協調的行動を採っても その仲間内における利他的行動も 人間性の論証には全くならない

バカな大衆は 自分が主観的に気分が悪くなる話をする相手の言っている内容は論理的に理解したがらず 気分が良くなる話だけを信用したがるものである

だから 目先のご機嫌取りや 形式的マナーだけを根拠に勝手に相手に順位序列をでっち上げ 論理客観的根拠もない「常識」的な安心できる話以外には耳を貸そうとはしなくなる

”主観的に気分が良くなる話=正しい話”という解釈しかしたがらないため 論理客観的根拠に基づいた真実の論証には耳を貸さなくなるのである

主観的 観念的に「わかったような気分」に陥っているだけであって 論理客観的には何も「理解」などしていないのである

だから簡単にデマやペテンに騙される

そして 厄介なことに 一度信じ込んだ話を否定されても 過去に一度信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形で 気分が悪くなる話には耳を貸さなくなるのである

これが「認知的不協和理論」の肝である

「認知的不協和」なんて熟語を使われると 何やら複雑で難解な印象を抱いてパンピーには理解できないものなのではないかと錯覚しがちだが

実は「気分が悪くなる話は信じたがらない」だけの理論に過ぎない

一度カルト宗教の教祖を信じ込んでしまうと 信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形で否定的な話は全部「嘘」だと否定するようになる

これが「洗脳」というものである

 

ヒトは 先天的な「社会性」という性質があり 統率協調的に権威に服従することで狩猟採集生活の時代には生き延びることができたため 先天的に狩猟採集生活に適応した盲目的な権威服従性が動物行動習性として組み込まれており それが原因でミャンマー軍事政権や香港警察のような封建的独裁にも簡単に迎合してしまうのである

ヒトがヒトにまで進化したのは 生物進化の歴史の中ではごく最近の話であり 生物史全体から見たらヒトなど「新種」に過ぎない

ところがヒトというのは 自分が生まれて数十年の間しか知識がないもんだから それだけが歴史や世界の全てだと勘違いし 過去に起きた事象には興味が働かなくなるため 遺伝的進化を万能だと錯覚したり カルト宗教にのめり込んだり 詐欺師に簡単にカモられたりするのである

その意味において ヒトは何ら「知的生命体」などではないのだが 他人の業績を単に「知っている」というだけで あたかも自分自身でも気付くことが可能な能力であるかのように錯覚し 自らの頭の悪さを自覚しなくなるのである

どんなに大量の知識を知っていても イマヌエル:カントの「純粋理性批判」には論理的飛躍や勝手な決めつけがが著しいことには気付くことのできないバカの方が圧倒的に多いのである

ヒトの大半は「痴的生命体」である

だから戦争だの無差別殺人だのイジメだのヘイトが治まらない

ヒトが先天的にバカであることを自覚認識していれば バカげた錯覚に惑わされて無駄なことに邁進したり 他人に多大な迷惑をかけたりせずに済むのである

ヒトがバカなのは ヒトのせいではない

だが バカなのを自覚したがらないのは本人の責任の範疇である

間違えることそのものが間違いなのではなく 間違えたことを自覚認識しようとせずに間違った認識を押し通そうとすることこそが「本当の間違い」なのである

「過ちて 過ちを認めず これ本当の過ちなり」って 論語だったっけか? 何か中国の古典になかったっけ

ググれば出てくるかもね

 

知らんけど

 

 


Ende;

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感情という無意識

2021年08月15日 11時30分38秒 | 意識論関連

DaiGoの問題発言もそうなんだが 個人の主観的な好き嫌いは社会的正義にはならない

個人的好き嫌いを述べるのは勝手なんだけど それを法律などの社会制度に持ち込んだら狂人にしかならない

ヒト個人には それぞれ個人的な好き嫌いってのはあるんだけど それはあくまで個人的なものであって 社会的な価値があるわけではない

「人が人を殺してはいけない理由」はないのだが

「人が人を殺してまで生き続けなければならない理由」もないのであって

客観的に考えて 自分の発想を他人に置き換えてみれば 個人的な好き嫌いで他人に順位序列をでっち上げて差別されることの危険性は ちょっと考えれば誰でもわかる話である

個人的な好き嫌いで他人を差別して存在価値を勝手に決めつける奴は頭がおかしいことくらい いちいち言わなくてもわかりそうなものだが

主観的な好き嫌いというものを意識の主体だと 意識の本質だと勘違い錯覚しているからヒトは簡単にヘイトに陥る

「ヒトは皆レイシストである」と述べた方がいて 「ヘイトスピーチに熱中しているキチガイの群れが嫌いだという自分もまた差別主義者だ」とつぶやいていたことがある

私も夜中に泥酔して騒いでいる糞DQNは大嫌いだが 糞DQNが糞DQN行動を採る原因を究明し 他人の迷惑に配慮ができなくなるメカニズム構造を解明することが必要だと考えている

これは犯罪者も同じことで 他人の迷惑に配慮できないからこそ犯罪に手を染めるのであって 自律的な社会的責任判断選択ができていれば他人の迷惑にも配慮ができるようになる

他人の迷惑にも配慮ができれば犯罪者にも糞DQNにもならないからだ

 

DaiGoは また こうも発言している

「犯罪者が社会の中にいるとみんなに害があるでしょ?だから殺すんですよ。同じですよ」

これはつまり 死刑制度を含めた刑法罰のことを言っているのである

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖を死刑にしたら 障害者差別や虐殺事件はなくなるだろうか?

通り魔やテロリストを死刑にしても 無差別殺人事件がなくなる構造的原理は存在しないのである

無差別殺人者を嫌わない者というのは極めて稀だろうが 嫌いという主観をどんなに多数集めてきても それが短絡的に社会安全性などの公益性に寄与することの論証にはならない

 


ホームレスなどの貧困者と一言で言っても 当人の努力だけではどうにもならない構造的問題というのも存在しているのであって 単に「ホームレスだから要らない」とい話にはならないのである

確かに悪質なホームレスというのもいて 生活保護を受給した即日にギャンブルに注ぎ込んで 後はボランティアの炊き出しで食いつなぐという身勝手な奴もいるこたいるのだが ホームレスの全員がそういう身勝手な生活保護の主旨を逸脱した使い方しかしていないわけではない

「ホームレス」の一言では 人間性とか倫理性を量ることにはならないのだ

それは「犯罪者」でも同じである

司法裁判では 犯罪者の悪質性とか更生の余地とか被害の大きさなどを勘案して 刑罰の重さを決めているが 犯罪者は全員同じではないため 同じ罰を与えても更生する場合もあれば 更生するどころか出所後数日で再犯することも非常に多い

日本での再犯率は50%程度あり イギリスでは75%にも達するという

司法の勝手な判断によって 社会安全性が蔑ろにされている現状を放置すべきではない

犯罪者がなぜ 自律的な社会的責任として他人の迷惑に配慮ができなくなっているのかについての科学的構造原理を解明することで ヒトが持つ先天的危険性などの欠陥を補うための重要な 対策に有効な知見として利用することが可能である

 

意味のわからぬ無差別殺人や傷害事件というのは後を絶たない

「意味がわからない」という点においては 実際には「刑法判決で解決だ」という結論もまた同じことである

ヒトは暴力を振るうと脳が気持ちよくなる

映画や漫画の多くが暴力で何かを解決する物語に人気があるのも それが原因である

フォートナイトのような殺人ゲームも人気がある

ヒトは 嫌いな奴を殴っておけば快楽を感じる習性があるため 殴ってさえおけば何かが解決したと錯覚して満足し それ以上の何もしなくなるのである

悪質な犯罪者であっても むしろ悪質であるからこそ 「なぜ自律的な社会的責任を負わず 他人の迷惑に配慮できないのか」についての原因究明において 最適な「検体」だとも言えるのである

それを刑法によって死刑にしてしまっていたら 本当の「真実」は闇に葬られてしまうのである

それが原因で無差別殺人が無為に繰り返されている以上 死刑制度を含めた刑法そのものを批判しない国民全員の責任でもある

 

ヒトは 主観的に気に入らない相手には短絡的に懲罰を与えて満足しようとする習性がある

JR西日本による懲罰的「教育」こそが 尼崎列車脱線事故の原因であることは 遺族達による検証によって明らかになっている

暴力的抑圧によって恐怖で他人を支配することは 個人の主体的判断能力を失わせてしまい 「秒単位で決められたダイヤを守ることだけ」に意識を奪われることで 速度超過で急カーブに突進した結果が大惨事となったのである

これは刑務所も同じである だからこそ再犯率が高留まりして改善しない

他者から与えられる恐怖で抑圧されている状態というのは「他律」である だから釈放されて「他律」がなくなった途端に歯止めが効かずに再犯する

ノルウェーだかデンマークだか忘れたが 北欧で罰を与えない刑務所の再犯率が極めて低く抑えられているという話があった

被害者側からすると 何だか気分的に納得感は得られない話ではあるのだが 犯罪者の多くは幼少期からの虐待によって自律的判断能力を育まれていないという「被害」者でもある

そもそも子育てなんていうのは全員が初心者であって 育て方を間違えて犯罪者にしてしまうこともあるだろう

誰しも「ヒトは間違えるもの」だからである

 

個人的には犯罪者も糞DQNのような脱法犯罪者も全員死ねと主観的には「思う」こともあるのだが これは私の個人的主観や好き嫌いの範疇であって 糞DQNを死刑にしても糞DQNがいなくなる構造的な問題の解決には全くならない

社会安全性にとって最も重要なのは 「気に入らない相手を殴る」ことではなく 「何でコイツは糞しょうもないことをやらかすんだろう?」という疑問を解明して具体的に再発防止につながる対策にまでつなげることである

無差別殺人をやらかすバカというのは おしなべて「社会が悪い」などと言い出すものであるが 社会のどこが どのように間違っているのかを論理客観的に解明し 具体的にどう変えることで改善するのかを提案提示し 地道に一つ一つの社会問題を解決してゆく必要がある

そうした地道で丁寧な対策をすっ飛ばして 「暴力で解決だ」となるからバカなのである

それは刑法罰を放置している国民全員も同じことである

無差別殺人犯を死刑にして満足し 同じ様な無差別殺人が起きても誰も責任を負わない制度を放置していることもまた 無責任の一端を担っているのである

ヒトは 多数で無責任なことをしていると 責任が薄まるような「感覚(錯覚)」によって気分的には平気になってしまう

そういう先天的欠陥を持っていることを自覚しなければ 本当に安全性にとって最も効率の良い対策制度には到達できないのである

 

 

 

Ende;

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きをつけなはれや

2021年08月14日 21時59分18秒 | 意識論関連

新型コロナウイルスは ヒト以外のイヌやネコにも感染するという

哺乳類なら何でも感染可能なのかも知れない

もし 最終的にコロナウイルスが弱毒共生化を達成できるとしても

その共生する宿主相手がヒトでなければならない理由は何一つない

ヒト以外のネズミやウサギなど 繁殖力の強い宿主に寄生しておいた方が コロナウイルスの「種の保存」にとって都合が良い可能性もある

そういう結果になったとしたら コロナウイルスにとってヒトは媒介としての役割でしかないことになる

鳥インフルエンザウイルスが ブタを媒介してヒトに感染するようになるのと同様に

コロナウイルスはヒトを媒介して他の感染可能な宿主探しに結果的には利用されている形にしかならない

ならば 別にヒトが絶滅してもコロナウイルスにとっての「種の保存」にとってはどうでも良い話である

 

実際にはコロナウイルスには「種の保存」などの目的はなく

散々宿主を乗り換えた挙げ句にあらゆる宿主ごと絶滅しても全ては「結果」である

ウイルスはシーケンシャルに変異を繰り返し 次々と宿主を乗り換えることで「種の保存」に結果的に適しているだけであって その先に何らかの目的のようなものがあるわけではない

「ヒトとの間に都合よく弱毒共生関係が作られる」などという話は 物事を論理客観的に検証できないバカの根拠なき勝手な妄想錯覚に過ぎない

日医大も客員教授を選ぶ際には気をつけるべきである

 

 

Ende;

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