嘘か真実かを見分けられてこその「意識」である
嘘を鵜呑みにしていて「意識」もスッタクレもないのである
ヒトの多くは主観的気分感情を意識の本質だと錯覚しており
また 心理学では「他人からの見た目に対する感情」を「自意識」などと形容しており これがさらに意識の本質を撹乱し 訳のわからぬ話を学問であるかのように錯覚させているのである
嘘なのか 真実なのかを区別するのは 論理検証性(理性)である
論理的根拠に基づいて より「真実らしい」話の方を根拠にすることで 社会の安全性や効率を向上させることができる
ここで勘違いされては困るのは 「効率至上主義」と称して「利己的金儲け」こそが「効率」だという解釈をするバカが後を絶たないが 「経済」という言葉は「経世済民」の略であり 経済の目的は「民衆を救う」ことであって 利己的金儲けのことではない
アダム:スミスによる「見えざる神の手」などという根拠の乏しい神話の類いを鵜呑みにし 「利己的金儲けさえしておけば社会全体が潤う」などという解釈に基づいているからこそ 効率=経済=利己的金儲け=理性という方程式を鵜呑みにしてしまうのである
理性を追求すれば 利己的金儲けには意味がないことに気づくことができる
なぜならば 利己的金儲けをどんなに行っても 社会持続可能性や安全性が担保できない限り 全ては無意味に陥る可能性が存在するからであり また ヒトは誰しもが必ず死ぬのであって 別に永遠に生き続けなければならない理由も 意味も存在しないのである
個人が生き続ける「理由」や「意味」とは 生きていて楽しいと主観的に感じ 安心して生き続けることができるからである
先天的欲望を満たすことができることによる快楽(脳内の快楽物質)によって ヒトは生き続けていることに意味や価値を見出すことができるのである
とは言え 特定の欲望だけを満たしても人生全体における満足にはならない
食欲に溺れて暴飲暴食を繰り返して生活習慣病になってしまえば 全然「望んだ人生」にはならない
性欲に溺れて強姦を繰り返していれば それはただの狂人に過ぎない
ヒトには意識があり 自分の行動を客観的に見ることが可能であり これはヒトである以上逆に回避不可能なものでもある
暴飲暴食に溺れる狂人に 自分が陥っていることに気づけば 到底自己肯定などできないであろう
特定の欲望に溺れ 社会的責任を追わないバカしかいない社会であれば 社会安全性も持続可能性も担保されないことは当たり前の話であり 本来であれば皆が自律的に社会的責任判断選択を行う社会こそが理想である
本当の自己肯定というのは 自律的に社会的責任を負うという責任感に基づくものであって 他人からの評価承認とは無関係なものである
ところが ヒトというのは目先の欲望に流され 社会的責任よりも利己的欲望によって社会の理想を見失い 社会的迷惑をも省みることを簡単に忘れて 特定の欲望に取り憑かれ中毒執着に陥る習性がある
特定の利己的欲望を満たすために最も有効で「効率が良い」のは嘘をつくことである
そして嘘を鵜呑みにして騙される方にも問題がある
詐欺は騙される方にも責任がある
嘘であることが理解認識可能でありながら 検証することを放棄する無責任さが存在するからである
視覚障害者に対して黒いものを「白いものだ」と嘘をついても 構造的に嘘を見抜くことはできない以上 この嘘に騙されることに責任はないが
視覚に障害もないのに黒いものを「白いものだ」という嘘を鵜呑みにしているのは無責任であり バカである
社会がバカだらけであれば安全性も持続可能性も一切担保されることはない
「人類の救済」などと称して地下鉄毒ガステロを行うのも 一言で言えば「バカだから」である
嘘を嘘だと見抜けないからバカげた行動で社会に迷惑をかけることになる
ヒトの脳には錯覚というものがあり 黒いものであっても白いと勘違いすることがよくある
しかし 錯覚というものは論理客観的に検証すれば 錯覚を錯覚だと自覚認識することが可能であり これを怠ることもまた社会的無責任の一つに該当する
遺伝的進化という自然界の「結果」に過ぎない現象を あたかも人類の目的であるかのようにそそのかすのが遺伝的進化万能論であり フランシス:ゴルトンによる優生学はこれに基づいた誤謬(嘘)である
遺伝的進化というものは過酷な自然環境下における強力な淘汰圧力によって促されるものであって 変異自体に方向性もなく そこに「目的」など存在する理屈は全く成立しない
ヒトという種の生物は ヒト以上の何者かに遺伝的に進化する構造はなく また必要性もない
遺伝子変異というものは勝手に起きる偶発的なものであり 何らかの「目的」に則って都合よく起きるものではなく たとえ先天的に何かの能力に劣っていたとしても 他人にその生殺与奪の権利は存在しない
先天的に存在する錯覚を 錯覚として自覚認識するのは論理検証性(理性)である
動くはずのない紙の上の印刷が動いて見えることが錯覚だと認識できるのは 論理的に「印刷模様が動くわけがない」と理解可能だからである
「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済だ」とか 「刑法判決で解決だ」といった嘘を 嘘として見抜けなくなるのは 錯覚という主観的感覚が論理客観性よりも優位に働いてしまうからである
錯覚に基づいた行動には合理性がない
ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識できないために 意味のない威嚇を延々と繰り返す
ネコの知能では その程度の理解力しか先天的に存在しないからである
先天的なり脳疾患なり 認知機能に何らかの理由で理解能力が欠如していて錯覚を錯覚として認識できないのであれば これは「視覚障害者に物体の色が認識できない」のと同じであるから責任はないが バカというのは理解認識可能でありながら理解しようとする意思自体が欠如していることによって 社会的責任を放棄しているのであって これは責任が存在する
「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済だと錯覚していたんだから 悪いのは錯覚であって俺に責任はねぇ」という主張は成立しないのである
嘘を嘘だと 錯覚を錯覚だと認識しなくなる原因は 主観的気分感情である
気分的に錯覚を錯覚だと認識したくないからこそ ヒトは簡単にバカになる
嘘や錯覚を鵜呑みにしておいた方が気分が良い場合 気分が良くなることの方を信じたがることによって 真実を見ないようになる
目先の自分の気分感情(欲望)が優先することによって 社会的責任としての「嘘を見抜く」ことを放棄しているのであり 犯罪者の行動と構造的には同じものである
錯覚は先天的なものである
自然界における淘汰圧力の結果として 遺伝的進化によって残った思考のバイアスが錯覚の原因であり 遺伝的進化というものは決して万能なものではなく 様々な錯覚という欠陥も遺伝しているのである
原発の危険性が放置されたことも ミャンマー軍事政権や香港警察による民衆弾圧も 兵隊や警官の権威服従性バイアスによる錯覚が促されているものであって 個人が自律的な社会的責任を負う判断よりも権威に服従することを優先したがる目先の安心(欲望)に基づくものである
どんなに複雑で巧妙であっても 盲目的服従による統率協調行動習性は理性ではなく 合理性の論証にはならない
多くのヒトは本能のままに行動することの方が健康でいられると勘違いしているが 本能のままに暴飲暴食を繰り返しておいて健康もスッタクレもあったものではない
ヒトが塩分や脂肪や糖分を過剰に摂取したがるのは かつての生息環境が塩分や脂肪や糖分が乏しい環境において 積極的に摂取した個体への淘汰圧力の結果である
文明以前 それこそヒトにまで進化する以前の生息環境下において 「生存にとって有利な行動バイアス」として統率的協調性や盲目的権威服従性が組み込まれたことも 現代社会においては到底合理的であるとは言えない
先天的本能習性というものは あくまで「結果」であって あらゆる環境条件下において適応的で合理性が存在する保証は何もない
先天的本能習性というのは意図目的に基づいて意識的に合理性を追求したものではなく あくまで「死なずに生き残った」という結果以上の意味は存在しないのである
「進化は人間よりも賢い」などというデマを鵜呑みにしておけば バカな生物学者共や大衆マスコミは遺伝的進化を万能の願望器か何かだと錯覚して満足しようとするが これはあまりに無責任なオカルトである
断片的にはバイオミメティクス的応用可能な遺伝的進化も存在はするが 決して遺伝的進化は完全無欠の万能なものではなく かつての生息環境によっては著しい欠陥をもたらすことも充分にある
遺伝的進化の全てが常に生存や種の保存などに適する保証は何もなく 実際に大規模大量絶滅は幾度も起きているものであって むしろ膨大な「進化の袋小路」という失敗の果てに偶発的に「死なずに生き残った」ものを生物と分類しているに過ぎず 生物やその遺伝的進化には目的も合理性の保証も存在しないのである
ヒトは 論理科学的根拠を伴わぬ嘘やオカルトであっても 気分的に満足安心できる話の方を信じようとする習性がある
ヒトの脳は信じたい話だけを信じようとするのであって 論理客観的に真実なのかどうかは優先順位が低いという先天的欠陥が存在しているのである
だからこそ簡単に詐欺にカモられる
しかも 「自分だけは絶対に大丈夫」という根拠のない過信こそが 気分的安心満足を得られるために どんなに特殊詐欺(もはや電話やフィッシングメールによる詐欺の方が「一般」化しているが)の手口を紹介しても 一向に被害は減らないのである
世の中というものは 相互信頼関係によって成立しているのだが 誰が嘘つきなのかは検証し 特定する必要性はある
「本当に信じて良い相手なのか」は区別する社会的義務は存在するのである
嘘つきを信用していれば 社会安全性や持続可能性は低下し 破綻への暴走しか陥らないからである
嘘つきかどうかを見極めずに盲目的に信用することこそが社会的には無責任であり 信頼に値しない行動選択に陥ることになる
なぜ こうした反証の必要もない簡単な理屈が多くのヒトには理解できないのかと言えば 「自分だけは絶対に騙されていないはずだ」という根拠のない自己過信に満足安心できるからである
ヒトは安心満足できることだけを信用したがる
だからバカが治らない
何度でも通り魔やテロなどの非合理な暴力行為は繰り返し 原因究明も論理客観的に具体性のある対策もされることはない
にも関わらず 自分達を知的生命体だと形容し 論理的根拠のない「叡智」に頼りすがることでどうにかなると「思って」いるのである
バカが治らないのに叡智もスッタクレもあったものではない
Ende;