後年になり自動化された繰糸作業であるが、当初はフランスから輸入
された機械を使って手作業で行われていたと言う。
その作業の担い手が若い女性達である。
工場の操業当初は、ここで働く工女を全国で募集したらしいが、その人
集めは難航を極めたそうだ。
その大きな理由が「外国人に生き血を取られる・・・」であったという。
赤いワインを好んで飲む外国人の姿を見て、当時の人々が奇異の目で
見ていたのである。政府が招いた技士がワイン好きであったことが窺わ
れるが、実際に工場内の発掘調査では、その頃のワインボトルらしき瓶
の欠片も見つかっているという。
根拠の無い噂話を払拭するため、日本側の責任者・尾高惇忠は自分の
娘、当時14歳の尾高勇(ゆう)を工女第一号として入場させるなどで、
ようやく予定の半分ほどを集め操業にこぎ着けている。
翌年には主に旧士族等の娘を中心に更に人集めが行われた。
その当時、同様な製糸工場を計画中の長野県は、富岡で学ぶ工女を募
集していた。そんな中に16歳の少女が工女に行くと、自ら父に願い出た。
旧信州松代藩の士族の娘・横田(和田)英(えい)である。
彼女の決意はその後十数名の娘達を誘ったと言う。
このようにして集められた15歳から25歳までの若い工女達は、フランス
人教婦から技術を学び、熟練度により分けられていた等級を上がり、やが
ては最高位の「一等工女」を目指して日々研鑽した。
そんな工女達は、やがて日本全国に作られる工場で、指導に当たるため
散らばっていくことになる。こうして彼女たちは、絹産業、強いては日本
の近代化に大きく貢献したのである。(続)
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