舞阪宿で公開されている脇本陣を出て、左に折れ西進すると宿場外れ
に常夜灯の立つ辻があり、目の前に浜名湖と魚市場が見えてくる。
ここら辺りが、明暦3(1657)年から4年余りかけて構築された、史跡
「北雁木」と言われる場所だ。
ここは主に大名や幕府の公用人が利用したと言う。
「雁木」とは階段状になった船着き場のことで、東西15間、南北20
間の石畳が、街道より水際まで下り坂状に敷かれている。
この宿場の西側には、荷物中心の南雁木、一般の旅人用の中雁木、
とこの北雁木、合計3カ所が設けられていたらしいが、北雁木だけが
現存している。
かつて舞阪の次の宿場は、浜名湖を控えて風向明媚な橋本宿であった。
浜名湖から流れ出る浜名川に架かる浜名橋の袂に広がる宿場町だ。
しかし明応の大地震でその陸路は断たれ、宿場町は消滅し、海上一里と
言われる渡しを利用することになる。
とは言えここは名にしおう遠州灘の荒波の打ち寄せる場所であり、実
際に渡船中の事故も起こっていたらしい。
航行の安全を度々脅かされる事から、事故防止渡しの安全のため、海上
には数万本もの波よけの杭が打ち込まれていたという。
舟はその杭の間を、守られるように進んでいたのであろうか。
舟は新居の関所の管理で、渡し舟は120艘、船頭水夫は360人いたと
いわれている。運行は、朝の一番方は午前四時頃の出発で、夕方は日没
前の午後四時が最終だ。これは対岸の新居関所が日暮れには締められる
ので、それを見越しての船出である。
舟一艘借り切りは約百文、乗り合いは一人四銭であったそうだが、年代
と共に高くなっていったと伝えられている。(続)
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