宿内に、「曲尺手(かねんて)」が残されている。
宿場の中程にあって、直角に二回曲げられた道のことで、敵の容易な侵
入を阻む軍事的な目的と、それ以外にも重要な役割があり、その目的か
らも多くの宿場内に設けられていた。
武家諸法度により参勤交代が制度化されると、全国に250余とされる
大名は、2年ごとに江戸に参府し、1年経ったら国元に帰る事が義務付
けられた。
その年やその月により出発や帰参する予定は、細かに決められていたが、
それでも沢山の大名が江戸表に向け、或は国元に向けて行列を組み動く
訳であるからこれは中々に大変な事である。
当然宿場では他の行列とかち合わないか、事前の調査・調整は欠かせ
ず、綿密なスケジュールが組まれていたようだ。
しかし、周到な準備で調整し出かけてみても、ままならないのが天候や
自然の異変である。
当然予定は狂い、時には行列同士が街道や宿場でかち合う事もある。
こうした場合、格下の大名は道を譲り、殿様でも駕籠から降りて挨拶を
するのが仕来りとされていた。
主君を駕籠から下ろす事は、行列を支配する供頭には大失態である。
そこで斥候を出して先を下見させ、もしもの場合は近隣の寺院や土豪の
屋敷に休憩と称して緊急に立ち寄っていたらしい。
その為に「曲尺手」で、敢えて先の見通しを悪くしていたのだ。
幕府の定める武家諸法度による大名の参勤交代は、各藩に課せられた
軍役としての参府である。
これにより藩の懐から巨費が費やされ、強いては藩財政を圧迫し雄藩で
さえ体力を削がれた言われている。
その反面大名が活発に動く事で、情報も伝達され、日本社会の均質化、
地方文化の向上に役立った。
何よりも街道の整備が格段に進んだのは最大の恩恵でもあった。(続)
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