簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

予科練の地(東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-23 | Weblog
 矢作橋を渡り暫く旧街道を歩いた後は、国道1号線に出て単調な国道
歩きを続ける。左側を走る名鉄の宇頭駅を過ぎた先の尾崎東で、国道1
号線を外れ右の旧道に入りこむ。
道なりに暫く行くと右手に「村社 熊野神社」の緑濃い森が見えてくる。



 街道沿いに常夜灯が立ち、それと並んで「予科練の碑」、「元第一岡
崎海軍航空隊配置図」と書かれた案内板等が建っていた。

 それによると、戦局の芳しくない昭和19年2月、戦力の画期的な増強
を目論見、海軍はこの地に練習航空隊を設置し、飛行予科訓練生の即戦
力養成を行っていたと言う。



 訓練生の数はおよそ六千名に上った。
全国各地から選別し集められた若者は、日夜の別なく厳しい訓練を受け
た結果、各地の航空隊へ実務練習生として派遣されて行った。
恐らく彼らはその地から、勝ち目のない戦の、特攻隊として玉砕すべく
飛び立って行ったことであろう。



 現在当地の三菱自動車の工場がある辺りにも、東西に長大な滑走路が
貫いていたらしい。
この岡崎から安城、豊田の各市に跨がるこれら航空隊の広大な平地も、
元々は開墾された田畑等が転用されたものである。



 昭和20年、日本はポツタム宣言を受け無条件降伏した。
戦争は終結し、同隊は直ちに解体され、施設は閉鎖される事になった。
跡地は元の美田に戻され、再開発され今日に到っている。



 飛行予科訓練生の事は、鹿児島の知覧を訪ねた折詳しく知り、胸に痛
く突き刺さるのを覚えたが、この地の予科練の存在はここに来るまで全
く知らなかった。

 今日の平和が、このような戦禍犠牲の元に成り立っていることを改め
て思い知らされ、頭を垂れずにはいられなかった。(続)





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コメント
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