「五万石でも岡崎様は、御城下まで舟がつく」
岡崎城下は、昔から俗謡でこのように謳われている。
徳川家康が生まれた地、神君出生の地であり、その後の度重なる苦難と
忍従を重ねた地でもある。
徳川幕府発祥の礎の地であり、更に東海道の要衝の地でも有った。
石高こそ低いものの、代々徳川譜代大名が城主を務め、その藩主の多
くが幕閣の要職を務めるほどの勢威を振るっていた。
岡崎には中世の頃から、竜ケ城と言う城が築かれている。
時を経て後世、家康が浜松城に移るまでの間の本拠でもあるが、岡崎発
展の礎を築いたのは、岡崎五万七千石の城主となった田中吉政である。
天正18(1590)年、徳川家康が駿府城から江戸に入った時を同じく
してここに入城し、ただちに城下の整備に着手している。
城を近世城郭に整備すると同時に、城下を七つの町割りの整備を進め、
町を囲む田中堀を作り、その内側に10年掛けて街道の付け替えを行った。
これが「岡崎二十七曲がり」、およそ一里で城下を抜ける宿場道である。
この間、社寺の領地の没収や、移転も強引に進めている。
またこの時矢作川に、江戸時代では最長と言われた木橋を架けている。
幾ら家康公のお膝元とは言え、また豊臣に対する西上への備えと言え、
些か度が過ぎているようにも思われた。
主たる目的が防御であるとは言え、城下を通り抜ける街道筋を、二十七
回も道を曲がらせるのは、尋常ではない。
しかし政情が安定した頃には、長い街道筋にも民家や商家が建ち並び、
是により人口も増え、人々も行き交い城下は賑わったらしい。
加えて街道の付け替えにより旅人は増え、旅籠の泊まりも多く、益々繁
栄を来したと言うから、吉政の先見性を認めざるを得ない。(続)
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岡崎城下は、昔から俗謡でこのように謳われている。
徳川家康が生まれた地、神君出生の地であり、その後の度重なる苦難と
忍従を重ねた地でもある。
徳川幕府発祥の礎の地であり、更に東海道の要衝の地でも有った。
石高こそ低いものの、代々徳川譜代大名が城主を務め、その藩主の多
くが幕閣の要職を務めるほどの勢威を振るっていた。
岡崎には中世の頃から、竜ケ城と言う城が築かれている。
時を経て後世、家康が浜松城に移るまでの間の本拠でもあるが、岡崎発
展の礎を築いたのは、岡崎五万七千石の城主となった田中吉政である。
天正18(1590)年、徳川家康が駿府城から江戸に入った時を同じく
してここに入城し、ただちに城下の整備に着手している。
城を近世城郭に整備すると同時に、城下を七つの町割りの整備を進め、
町を囲む田中堀を作り、その内側に10年掛けて街道の付け替えを行った。
これが「岡崎二十七曲がり」、およそ一里で城下を抜ける宿場道である。
この間、社寺の領地の没収や、移転も強引に進めている。
またこの時矢作川に、江戸時代では最長と言われた木橋を架けている。
幾ら家康公のお膝元とは言え、また豊臣に対する西上への備えと言え、
些か度が過ぎているようにも思われた。
主たる目的が防御であるとは言え、城下を通り抜ける街道筋を、二十七
回も道を曲がらせるのは、尋常ではない。
しかし政情が安定した頃には、長い街道筋にも民家や商家が建ち並び、
是により人口も増え、人々も行き交い城下は賑わったらしい。
加えて街道の付け替えにより旅人は増え、旅籠の泊まりも多く、益々繁
栄を来したと言うから、吉政の先見性を認めざるを得ない。(続)
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